F-86
えふはちじゅうろく
「ハチロク」とは
アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発した第1世代ジェット戦闘機。愛称は「セイバー」、F-86Dに限っては特徴的なレドームから「セイバードッグ」とも。
F-86は対戦闘機戦を重視して開発され、1949年よりアメリカ空軍に配備。
朝鮮戦争では15:1ともいわれる割合でMiG-15を撃墜し、中台海峡では初めて空対空ミサイル(AIM-9)による撃墜を記録した。しかし、その後アメリカでは格闘戦よりも、レーダー・ミサイルを生かした視界外戦闘を重視するようになり、格闘戦戦闘機の血統は途絶えてしまった。総生産数は9,860機。
航空自衛隊でも主力戦闘機としてF-86Fを採用し、ブルーインパルスの初代装備機にもなった。日本での公式愛称は『旭光(きょっこう)』だが、一般にはハチロクと呼ばれ親しまれる。同じく全天候型戦闘機としてF-86Dも運用されたが、こちらは比較的短期で引退した。
開発
F-86は、本をただせばXFJ-1の空軍型である。
その開発はすでに大戦中には始まっていた。
NA-134のなぞ
1944年、レシプロエンジンの性能には限界が見え始めていた。
当時の大出力レシプロエンジンといえばR-3350やR-2800が代表的だったが、その実用化は一筋縄とはいかず、完成まで難航を強いられたエンジンでもあった。更なる大出力エンジンも開発されてはいたが、これらは総じて取り扱いが面倒で調整も難しく、出力の限界は見え始めていた。
当時のノースアメリカンに限らなかったが、アメリカの航空機開発各社ではこれらに代ってターボジェットエンジンに注目し、研究を始める。1944年末には陸海軍へ設計プランのいくつかが寄せられるようになり、または軍から計画を命じるようになった。ノースアメリカンの場合は『社内設計図番号:NA-134』。これがすべての始まりであった。
1945年1月1日、アメリカ海軍は『P-51のジェット版』としてXFJ-1を発注する。
同年5月23日、アメリカ陸軍航空軍も中距離高高度戦闘機としてXFJ-1に注目し、XP-86として陸上機型の開発を命じた。同年6月にはドイツから後退翼の理論・実験データがもたらされ、これを基に後退翼をXP-86に適用すべく、大掛かりな変更が行われた。
1947年10月1日、XP-86が初飛行。
1949年には最初のF-86Aがアメリカ空軍に配備された。
単発単座で、主翼・垂直尾翼・水平尾翼に後退翼を採用し、主翼は低翼配置。J47-GE-27ターボジェット・エンジンが胴体を貫くように配置され、機首のエアインテーク周辺にブローニングM3 12.7mm機銃6挺を集中装備している。
朝鮮戦争への投入
F-86は朝鮮戦争ではじめて実戦に投入された。
というのもソウルを奪還し、返す刀で中露国境へ迫る国連軍の前に、強敵が立ちはだかったのだ。
その邂逅は10月19日、中国義勇軍(中国人民志願軍)の登場である。ひそかに鴨緑江を渡り、朝鮮半島へ入っていたのだ。
もっとも、わざわざ『義勇軍』と名乗る場合にはよくあるように、その実態は中国人民解放軍そのものであった。戦乱が中国本土にまで及ぶのを恐れ、何としても戦争を朝鮮半島内に押し込めるべく、大軍団でもって介入したのである。
当時の中国はソ連とも危機感を同じくしており、最新鋭のMiG-15が供与された。
MiG-15の出力は国連軍のあらゆる戦闘機を圧倒し、その火力はかつて猛威を振るったB-29でさえも、わずか一度の機銃掃射で撃墜されるという有様であった。その脅威たるや、F-80はもちろん、新型だったはずのF-84やF9Fでさえ太刀打ちできない。ここに共産主義勢力の総力を見たアメリカは、配備されたばかりのF-86(F-86A)を押っ取り刀で投入する。
こうしてようやく航空戦は一息つけるようになった。
F-86は高高度性能・上昇力ではMiG-15に劣るものの、低空性能や急降下能力に優れていた。レーダーなど電子機器の性能や、パイロットの技量差もあり、やっと優勢まで持ち直したのである。この後も双方ともに改良型を送り出し、激しく鎬を削ったが、最終的にF-86のMiG-15に対する撃墜・被撃墜比は15:1と言われる数値で落ち着いた。
しかし、この数値は敵地上空で確認が取れなかった事やプロパガンダも含んだ数値であり、90年代になってソビエト側の資料と突き合せるまでは広く信じられていた。現在この記録は4:1に下方修正され、ベトナム戦争にも並ぶ数値となった。
なお、どうしてソ連があっさり最新鋭機を投入したのかというと、『代金は中国持ちだと思っていた』のも一助だったのだとか。のちに代金の話が表面化し、中ソの政治対立が深まった結果「珍宝島事件」が起こるが、それはまた別の話である。
日本におけるF-86
F-86F
1955年、発足間もない航空自衛隊には180機のF-86Fが供与された。
1956年から三菱重工によるノックダウン生産が始まり、続いてライセンス生産も始まった。
最終的に480機のF-86Fを配備したが、作りすぎて使われなかった45機はアメリカに返納したため、実際の運用機数は435機とされる。
運用部隊が減るに伴い、邀撃機から支援戦闘機へと変更されるが、1977年には新たな支援戦闘機との入れ替えが始まる。1982年、最後に残った総隊司令部飛行隊(入間基地)が解散し、全ての機が退役した。
RF-86F
1961年、新たな主力戦闘機導入に伴い、余剰となった18機を偵察機に改造した。このRF-86Fは日本独自の仕様で、機体側面に設けられたバルジが特徴的である。当然内部にはK-22カメラが収められており、他に機首下面にもK-17カメラが収容部ともども作りつけられた。
第501飛行隊で運用され、RF-4Eが揃うと航空総隊司令部飛行隊で運用された。1979年に退役。
F-86D
1958年からはレーダーを装備したF-86D「セイバードッグ」を122機導入。
これは在日米軍が使用していた中古品で、一部は部品取り用であった。こちらは高温多湿な日本での運用のため故障が相次ぎ、10年程度の運用年数だった。
主な派生型
F-86(P-86)
F-86A
最初の生産型で、朝鮮戦争に投入された。
最初期の33機(F-86A-1)は空気抵抗減少を狙い、機銃口に電動式ドアが設けられたが、これは故障が多かった。途中から機能を封印してプラスチック製の蓋(機銃の初弾で突き破る)に変更されたが、結局は「有無にかかわらず性能は変わらなかった」として廃止された。
YF-93(F-86C)
戦略空軍の「侵攻戦闘機計画」向けに試作された。
機首にレーダーを搭載するため、エアインテークを胴体側面に移している。
通常のエアインテークは胴体から「張り出し」を作るのに対し、1号機では空気抵抗を抑えるため、胴体にその分の「凹み」をつけている。これはNACAが考案した「平滑型」という形式だったが、試験飛行で迎え角が付きすぎるとエンジンに空気が行かなくなる事が発覚した。
2号機からは通常のエアインテークとなり、1号機も最後は改修された。
試作と同時に生産型も発注されたが、朝鮮戦争の戦訓からB-36が役に立たないのが分かったため「侵攻戦闘機計画」は中止された。
後に夜間戦闘機としても発注されたが、これもF-86Dに統合されて消滅した。
YF-95A(F-86D)
F-86をベースに、脅威を増しつつあったソビエト爆撃機に対抗するために開発された迎撃戦闘機。
朝鮮戦争に伴う出費でアメリカの国家財政が悪化し、予算獲得のため型番がF-86Dに変更された。確かに主翼・尾翼などは共通だが、機体の中身はほぼ別物で、全体として図面の75%は新規設計。
単座戦闘機なのに操縦とレーダー操作とが求められたが。レーダー手を同乗させると重量増で性能が低下するためそのままになった。
機首下面にMk4 FFAR マイティマウス(ロケット弾)の24連装ランチャーが内蔵され、自動制御により斉射できる。エアインテイク上にレドームが新設され、これが犬の鼻のように見えることから「セイバードッグ」と呼ばれた。
イタリアでもこの簡易型がライセンス生産され、フィアットG.91開発に大きな影響を与えた。
F-86E
F-86Aに続いて朝鮮戦争に投入された制空戦闘機。
操縦系に人工感覚装置を取り入れ、超音速へ対応するため水平尾翼を全遊動式としたもの。
超音速になり、翼面から衝撃破を発生させるようになると、尾翼後端の舵面はほとんど空気のない場所で「空回り」してしまうことになる。そのため、尾翼全体を舵面として超音速での安定性・操縦性を確保し、困ったときは急降下で逃げるというF-86の運用法が確立された。
F-86F
シリーズにおいて最も多くが製造された戦闘爆撃機型で、2,239機を製造した。
生産中から前縁スラットを廃止し、付根で6インチ・翼端で3インチ拡大して境界層板を付けた「6-3翼」が適用されるようになり、空戦能力は向上した。これは既生産機にも適用されている。
F-86F-25以降は戦闘爆撃機となり、増槽以外に爆弾も搭載できるようになった。中でもF-35は核攻撃用の低高度爆撃システム(LABS)を装備し、F-40では6-3翼から境界層板を廃止し、スラットを復活させて翼端を延長している。この主翼は6-3翼で高くなってしまった失速速度を元に戻すためのもので、のちに6-3翼装備機にも適用された。
F-86F-2
F-86F-1(6機)とE-10(4機)は、M3 12.7mm機銃をM39 20mm機関砲(4門)に換装してF-86F-2となり、1953年初頭から「ガンバル(Gunval)計画」として7機が金浦に配備・テストされた。が、戦闘中に機銃の発射煙を吸いこんでエンジン・ストールを起こし、2機が墜落している。
F-86H
本格的な改良型戦闘爆撃機。
エンジンはJ73に換装され、機首が153mm大きくなった。胴体も太くなり燃料搭載量が増えている。
F-86H-5以降は機銃がM39 20mm機関砲(4門)に換装され、H-10からはF-40仕様の主翼に変更された。LABSを搭載し、核攻撃も可能。
F-86J
F-86A-5をカナデア製「オレンダ」エンジン搭載に改造し、テストに供されたもの。
Jの型番はこのエンジン搭載機に割り振られる予定だったが、結局ノースアメリカンでは生産しなかった。
FJ(海軍型)
FJ-1
1944年から設計が始まり、1945年にアメリカ海軍の発注を受け、1946年9月に初飛行。P-51から主翼・尾翼などの設計を流用し、エンジンは胴体を貫くように配置されていた。空軍仕様よりも設計は早い。しかし性能は期待を満たすものではなく、後退翼の採用がなければこのままボツにされていた凡作。
FJ-2
F-86の海軍型。
主翼の折り畳み機構や着艦制動フックを装備し、武装を20mm機関砲に変更した他はF-86に準じる。重量増加により性能は低下した。
着陸装置(車輪)に難があったため、海兵隊で運用されるに留まる。
FJ-3
FJ-2で問題になったパワー不足をエンジン換装で解決した型。
海外生産分
CL-13(通称:カナディア・セイバー)
朝鮮戦争でF-86の生産が間に合わず、カナダのカナディア社でライセンス生産されることとなった。
セイバーMk.1~Mk.6までの型があり、それぞれA-5やE-1、E-10に相当する。Mk.4では独自の「オレンダ」エンジンを搭載してテストされた。このテスト結果をもとに、更に6-3翼を導入した型がMk.5となった。のちに前縁スラットを復活させ、エンジンをチューンアップした型(Mk.6)も生み出された。
一部はF-86E相当としてアメリカ向けに輸出されている。
その後のノースアメリカン社
F-100スーパーセイバーの制式採用から後、ノースアメリカン社の経営は振るわず、開発した機体も軍民問わずに不採用・不採算が相次いだ。1967年にロックウェル社に吸収され(存続会社はノースアメリカン・ロックウェル)、ノースアメリカン社は39年の歴史に幕を閉じた。
フィクションにおけるF-86
同作を始め東宝特撮映画初期のF-86は、実際の航空自衛隊で運用されている機体とは異なり、米軍風の識別マーキングを纏っていることが多い。これは初登場の『ゴジラ』が制作された1954年当時は航空自衛隊にF-86が供与されておらず米軍仕様機をもとに模型を製作したためといわれている。
『ラドン』では飛行している実機を地上から撮影したカットもあるが、これは米軍基地の近くで米軍機を(勝手に)撮影したものであり、画質が古いため見づらいものの、よく見ると日の丸ではなく星のマークがついていたりする。映画の模型はもちろん日の丸になっているが、実機映像と違和感が出ないようにその他のマーキングは米軍風なのである。また幸いにもこの頃は米空軍も空自も無塗装ベアメタルが一般的だったので、塗装に関しては違和感が無かった。
- 2019年のアニメ『荒野のコトブキ飛行隊』において、旧日本軍のレシプロ戦闘機が主に活躍する中で、最終話にてF-86Dが登場。マイティマウスによるロケット攻撃で主人公らを攻撃するが、最後は誘い込まれて自らのロケットで破壊した石像の破片でエンジンストライクを起こして墜落した。