ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
本多氏の編集履歴2024/10/19 06:13:30 版
編集者:タタキ
編集内容:誤記を訂正

概要

藤原顕光(従一位・左大臣)の子孫・助秀が豊後国日田郡本多(大分県日田市を領したことから始まると自称。また賀茂氏の末裔との説もある。

南北朝時代に助秀の子・助定足利尊氏に仕え、尾張国横根と粟飯原を領し、室町時代には尾張と三河にまたがる土豪に成長した。

戦国時代になって松平氏に仕えるものが出始めた。

定通流

助定の子・助政の子・定通を祖とする流れ。一般にこの家を宗家としている。

平八郎家

徳川家康に仕えた本多忠勝が宗家の出身で、忠勝以降は平八郎家と称される。

1590(天正18)年の関東移封後に上総大多喜(千葉県大多喜町)5万石を与えられ、以降10回の転封の後三河岡崎(愛知県岡崎市)5万石で明治維新を迎えた。また分家が陸奥泉(福島県いわき市)2万石(戊辰戦争により1万8千石)と播磨山崎(兵庫県宍粟市)1万石の2家が幕末まで続き、3家とも華族令により子爵となった。

彦八郎家

定通の曾孫・正時を祖とする家。家名の由来は、酒井忠次の次男・彦八郎康俊が5代当主・忠次の養嗣子となったことが由来。

関ヶ原の戦いの戦功で三河西尾(愛知県西尾市)2万石を与えられて大名となり、4回の転封の後近江膳所(滋賀県大津市)7万石で明治維新を迎えた。また分家が伊勢神戸(三重県鈴鹿市)1万石と三河西端(愛知県碧南市)1万500石の2家が幕末まで続き、3家とも華族令で子爵となった。

作左衛門家

正時の孫・信正を祖とする家。

その曾孫である重富重次兄弟は共に家康に仕え、重次の子・成重の時に越前丸岡(福井県坂井市)4万3千石の大名となったがお家騒動により改易(のち2千石の旗本として復帰)。

重富の子・富正越前松平家の家老として越前府中(福井県越前市)4万石を与えられ(のち越前家の減封により2万石)、華族令により男爵となった。

定正流

定通の弟・定正を祖とする流れ

弥八郎家

定正の末裔である本多正信を祖とする家。

関東移封後に相模玉縄(神奈川県鎌倉市)1万石を与えられ、長男の正純は下野宇都宮(栃木県宇都宮市)15万5千石まで加増されたものの改易。

次男の成重加賀前田家に仕え、筆頭家老として5万石を与えられた。

維新後、華族令により男爵となった。

三弥左衛門家

正信の弟・正重を祖とする家。

1616(元和元)年に下総舟戸(千葉県柏市)1万石を与えられ大名となり、その後分知による旗本降格と加増による大名復帰、2回の転封で駿河田中(静岡県藤枝市)4万石で明治維新を迎え、徳川宗家の駿河移封で安房長尾(千葉県南房総市)へ移封となった。

華族令により子爵となった。

豊後守家

定正の孫・正経を祖とする家。

その末裔である広孝康重父子が家康に仕え、関東移封後に当主となっていた康重が上野白井(群馬県渋川市)2万石を与えられた。その後5回の移封の後、信濃飯山(長野県飯山市)3万5千石で明治維新を迎えた。

華族令により子爵となった。

外部リンク

本多氏 - Wikipedia

関連記事

親記事

本多氏の編集履歴2024/10/19 06:13:30 版
編集者:タタキ
編集内容:誤記を訂正
本多氏の編集履歴2024/10/19 06:13:30 版