1896年に裕福な質屋の子として生まれる。実家は仏教の信仰が篤い家庭で、父は熱心な門徒(浄土真宗)であったが、賢治自身は法華経を信奉するようになった。
地元の農学校教師になって農業の向上に努力し、その傍らで多くの詩や童話を書いた。その後学校を退職して羅須地人協会を設立、芸術と農業を結びつける農村文化の創造を説くが、賢治の理想は一部の若者にしか支持を得られず、社会主義運動との関連を疑った警察の事情聴取を受けて事業継続を断念。肥料会社の営業マンに転じ、過労から肺炎を患って1933年に亡くなった。
体が弱っていった遠因として信仰心の篤さもあるらしく、特に晩年は生臭を口にすることを避ける傾向が強くなっていったという。
地元では生前から有名人であったが、「夢想家のお坊ちゃん」として冷ややかに見ていた人も多かったという。作家としては生前は無名に近く、ほとんどの発表作品は売れず、未発表や未完成が多い。没後になって、詩人の草野心平の努力で世間から注目されるようになり、独特の世界観・作品群に評価が高まり、様々な分野の人々に影響を与えた。
代表作品
銀河鉄道の夜 注文の多い料理店 風の又三郎 セロ弾きのゴーシュ 雨ニモマケズ グスコーブドリ伝記など