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山縣有朋の編集履歴

2013-11-14 23:23:54 バージョン

山縣有朋

やまがたありとも

山県有朋は、長州藩士,陸軍軍人、政治家。第三代内閣総理大臣。

明治大正軍人政治家武士の下働きの中間身分(足軽のさらに下)という低い身分の出身ながら公爵・元老・陸軍元帥の地位にまで栄達を遂げ、「国軍の父」「元老中の元老」と言われる。


生涯

天保9年(西暦1838年)閏4月、長門国萩城下に生まれた。5歳で母の松子を亡くし、父は23歳の時に死去した。


21歳の時に藩から京都に派遣されると、尊王攘夷思想の洗礼を受け、久坂玄瑞の紹介で、帰藩後吉田松陰松下村塾に入門した。短期間ではあったが山縣は松陰に強い影響を受け、生涯師として敬事した。山縣は狂介と改名し、後には高杉晋作が建軍した奇兵隊の軍監になり、また明治維新にはこれを率いて長岡攻囲戦にのぞんでいる。


西郷隆盛の協力を得て陸軍大輔に就任、日本陸軍創設の父である大村益次郎の実質的な後継者として帝国陸軍建設を実行、徴兵制を施行した。一時山城屋事件の不手際で江藤新平らの追及を受け陸軍大輔を退くも、明治6年には初代陸軍卿として復帰。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。西南戦争を徴兵の軍隊によって遂行し、かつて世話になった西郷に自決を勧める手紙を送った。


政治家としては、伊藤博文憲法調査のため渡欧すると、その留守を預かって参事院議長となり、後半生の活動をここに開始。


明治16年には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。内閣総理大臣としては朝鮮半島の確保を説き、超然主義をもって初期議会の運営にあたった。明治23年に教育勅語を発布、次年には元老となって伊藤博文と並ぶ長州閥の領袖として「元老政治」を行った。


日清戦争では第一軍司令官として満洲の地にあり、兵士に「捕虜となるより潔く一死を遂ぐべし」と訓示。明治31年、第2次山縣内閣を組閣。治安警察法を制定し、言論・労働運動などの弾圧を進めた。日露戦争では参謀総長兼兵站総監を務める。


明治42年に伊藤博文が暗殺されたあとは、軍および政界で絶大な権力を振るうが、同時に藩閥に属さない者たちからの反感反発も大きくなり、山縣は国民からの嫌われ者となった。


山縣は議会と対立し、超然主義を主張しつづけたが、大正政変以降は政党政治への流れに抗し切れなくなり、山縣の政治的影響力は失墜していく。晩年は原敬を擁立したが、原の暗殺された3ヶ月後の大正11年2月1日、失意の山縣は小田原の別邸・古稀庵で、85歳の生涯を閉じた。


2月9日、山縣の葬儀は国葬をもって日比谷公園で挙行されたが、その一ヶ月前に同所で盛大に行われた大隈重信の国民葬と比較すると淋しいもので、「民抜きの国葬」と表現された。


評価

山縣は生前、明治の悪しき遺産である藩閥・軍閥・官僚組織の中心人物として国民には人気がなく、大正デモクラシー的な政党政治・民主主義自由への抑圧者であった。こうしたことから多くの文化人や政党政治家(山縣が擁立した原敬を含む)からは嫌われていた。死後もそのイメージは根強く残り、終戦後は「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という日本軍の自決強要の文化を作った責任者の一人、陸軍の暴走を生んだ軍閥を作った張本人として批判されていた。


しかし近年になって、外交・安全保障で慎重姿勢を貫いていたことや、軍拡を求めても大陸政策は消極的で謀略も嫌っていた事が明らかになり、「現実主義者」として再評価されている。さらに近年の歴史研究では明治以降の政党政治家はしばしば乱暴な対外強硬論を叫び大衆への人気取りに走っていた(山縣が進めた言論統制により国民が現実を知らされなかったのも一因なのだが)側面もクローズアップされており、大衆を信用せず政党政治を抑えようとした山縣は、軍事力による平和を模索した『近代日本の必要悪』と呼ばれるようにもなっている。


なお、昭和の陸海軍の暴走や陸海軍の不毛な対立は大正期に藩閥が解体され官僚組織の縦割り化が進んだことによる面も大きいとされる。


関連

内閣総理大臣 伊藤博文

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