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オスカー・シンドラー

おすかーしんどらー

ドイツ人の実業家。「シンドラーのリスト」主人公として、ホロコーストからユダヤ人を救った人物として有名。
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概要編集

オーストリア・メーレン(現チェコ)生まれ。ポーランドにて自身のエナメル工場で雇用していた1200人のユダヤ人を救う。墓にはイナゴマメの樹が植えられている。シンドラーのリストでその名が広く知られることとなった。


メーレン地方は第一次世界大戦後にチェコスロバキア領となっているが、シンドラーはドイツ系であったので、チェコスロバキアではなくドイツにアイデンティティを感じるようになった。シンドラー一家の信仰はカトリックだったが、シンドラー自身は宗教に関心がなく、カトリックの影響はほとんど受けることはなかった。近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。


1939年10月、シンドラーは、没収前ユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イザック・シュターンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。

ポーランド・クラクフ近くにあるザプロヴィツ(Zablowic)の小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。彼の工場は1942年末までに、巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場に成長していった。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者がここで働いたのである。その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。


シンドラーは快楽主義に取りつかれた遊び人で、まさにプレイボーイのライフスタイルを楽しみ、生きることをそのすべての面で享受していた。彼は、同時代の人たちから見てくれよく育ってきた人間とみなされて、上流社会の中で立ち回り、良い身なりをし、女性たちからももてはやされ、金銭を湯水のように使っていた。


そんな楽天的な工場主の経済的な関心は、ナチス党政権に対する不信感の前に次第に後退していった。それはイデオロギー的な理由ではなく、無力なユダヤ人住民たちに対する不当な弾圧への抵抗であった。やがては「出来る限り多くのユダヤ人を救済したい」という願望の下に、最後には全財産をこの目的のために投じただけでなく、自らの生命まで賭けようとしたのである。


シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求できたのである。 彼は、これらの労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけることが出来たのである。


シンドラーはその際にもウソをついたり記録を偽ったりということはせず、ただ子供や大学生を熟練の金属工と称しただけにとどまった。シンドラーは、かの有名な“リスト”を彼の秘書ミミ・ラインハルト(Mimi Reinhardt)に口述筆記させ、彼女もまた2〜3人の名前をそれに書き足していった。


シンドラーは、規則違反やユダヤ人に対する優遇の嫌疑をかけられ、たびたびゲシュタポから事情聴取を受けた。こうした事実をシンドラー自身も隠そうとはしなかった。1943年、シンドラーは、ユダヤ人組織の招待でブダペストに旅行し、そこでハンガリーのユダヤ人たちと会合を持った。彼は、ポーランドのユダヤ人たちの絶望的な状況を包み隠さず語り、救出の可能性について議論を交わした。


1943年3月、クラクフのゲットーは解体され、お気に入りのユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。 シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。

この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。


1944年末、プワシュフは、ソ連赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ、Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。


1945年5月8日、シンドラーの下にあったユダヤ人たちから一つの指輪が贈られた。この指輪は、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが感謝のしるしに、彼らが唯一持っていた本物の金歯からつくったものである。「一人の人間を救う者は世界を救う」 -タルムードにあるこの言葉が贈り物の指輪に刻まれた。


関連タグ編集

ポーランド ユダヤ人 ホロコースト


正義の異邦人編集

第二次世界大戦下において、ユダヤ人を助け出した非ユダヤ人に対する称号。

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