西洋史における「カノッサの屈辱」
世界史を学んだ人の大部分が覚えているであろう単語。
1076年、時のローマ教皇グレゴリウス7世とローマ王ハインリヒ4世は「聖職叙任権」をめぐって対立する。
この「聖職叙任権」とは、司教や修道院長など聖職者を任命する権限のこと。ハインリヒ4世は北イタリアにおける自分の影響力を増す為、自分を支持する司祭達をミラノを始めとした大都市の司教に次々と叙任した。
これを知ったグレゴリウス7世は「叙任権は君主ではなく教会にあり、認められるものではない」と通達。ハインリヒ4世が聞き入れなかった為、遂に「破門と皇帝権の剥奪」をほのめかすに至るが、これに激怒したハインリヒ4世は非公式の教会会議を開き、教皇の廃位を一方的に宣言した。
ハインリヒ4世からの使者に対し、ローマの司教会議に集った聖職者たちは激しく非難。教皇自らがその場を鎮めなければ、使者は生きてその場を出る事はなかったとされている。
ともあれこの出来事が決定打となり、遂にグレゴリウス7世はハインリヒ4世に破門を言い渡した。
当時の「破門」は、キリスト教徒的に大変な重みを持っていた。
簡単に言えば「お前は人の形をした何か」とみなされ、人間としての存在を否定されていると言っても過言ではなかった。
王だろうが貴族だろうが聖職者だろうが、例外はなかった。
こうした流れを受け、かねてよりハインリヒ4世を嫌っていたドイツの諸侯は、好機とばかりに叛旗を翻した。先頭に立ったザクセン公マグヌスは対立王としてシュヴァーベン大公ルドルフを擁立、ローマとの協調路線を踏み出す。
かくして「1077年2月2日までに破門が解かれない場合、会議を開いて新しいローマ王を決める」と決定される。更にグレゴリウス7世本人を仲裁者として会議へ招聘するとの通達が行われた。
更に会議の場で次の王が決まらない場合も、ハインリヒ4世が教皇に謝罪しない限りは王座は空位とする事とした。
完全に手詰まりになってしまったハインリヒ4世が取りうる、唯一にして最大の解決法。
それはグレゴリウス7世に直接面会し、誠心誠意謝罪する事だった。
1077年1月、件の会議に出席する為に出立したグレゴリウス7世は、旅の途中でトスカーナ女伯マティルデの居城カノッサ城に滞在する。
折しも雪降りしきる極寒の城門前、姿を現したハインリヒ4世は剣を置き、修道士の服装に身を包み、ひざまずいて教皇に赦しを求めた。これに王妃ベルタと当時2歳の長男コンラートが同道した事が記録されており、どうにかして同情をかおうとしたとも考えられている。
驚いたグレゴリウス7世は「自分を捕らえに来た」と考え、3日間に及び表に出なかった。その3日間、ハインリヒ4世は自分に二心がない事を示すべく、裸足のままで断食と祈りを続けたという……が、これは後に話を聞いた修道士による脚色の可能性も示唆されている。
この辺りは諸説ある所だが、仮にも王ともあろうものが「クッソ寒い中、妻子を連れてひたすらごめんなさいを繰り返す」という振舞を余儀なくされたのは、さぞ哀れな光景だっただろう。その姿を如何に見たか、4日目にしてようやく教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへと帰還したのである。
これは当時の教皇の絶対的な権力の象徴とも言うべき大事件であった。
その後もローマ教皇庁によって教皇権の優位性の宣伝に使われたり、逆にドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げたり、ちょくちょく引き合いに出される事となる。
ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服・謝罪すること」という意味の慣用句として用いられる。
後日談
さて、これでめでたしめでたし……という訳ではない。
どうにかこうにか最悪の事態を回避できたハインリヒ4世だったが、自分に屈辱を刻みつけた連中に対する恨みと怒りは消えなかった。むしろ悪化した。
ドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧。発言権を強化し、再び聖職叙任権をめぐってグレゴリウス7世と対立する。
1080年6月16日、ハインリヒ4世は教会会議を召集。
教皇の廃位を宣言させた上で、自身の子飼いであるラヴェンナ大司教グイベルトを新教皇の候補に指名し、軍を率いてローマを包囲した。許して貰ったくせに殺りにくるあたり、随分下衆な気がしないでもない。
グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に逃げ込んだが救出され、逃亡に成功。グイベルトはクレメンス3世として対立教皇(正当教皇に対抗して擁立された教皇)となった。
その後グレゴリウス7世は各地を転々とし、ローマに戻れないまま、1085年にイタリア南部のサレルノで死去する。無念の客死だったが、世俗の権力と教会を切り離す事を目的として改革につとめ、教会の自主性を求め続けた功績は後世に継承され、その後聖人認可を受けるに至る。
またこれをもってハインリヒ4世の大勝利……という訳でもない。
一度は鎮圧されたとは言えど、諸侯の反乱は収まる事はなかった。またグレゴリウス7世の後継である正当教皇ウィクトル3世・ウルバヌス2世も対決姿勢を継承し、ハインリヒ4世に破門を宣告する。
自業自得だが、自らの横紙破りによってこの事態を招いた事で、ローマ王の権威は地に墜ちた。この扱いを受け、遂にはハインリヒ4世の長男コンラートが離反。コンラートの死後、次男ハインリヒ5世までもが反逆する。
かくして1105年にハインリヒ4世は廃位され、翌1106年に55歳で死去した。最後まで破門を解かれる事はなく、失意のうちの死であった。
この聖職叙任権を巡る闘争については、1122年に「叙任権は教皇にあり」と定めた「ヴォルムス協約」が成立するまで続く事となる。
補足
「カノッサ」という、どことなく中世ヨーロッパ的な語感と、雪の中で王様が教皇に謝り倒すという本当に屈辱的な内容が、青少年の記憶に刻み込まれるのだと思われる。
また、世界史の比較的早い段階で出て来るのも幸いしているのかも知れない。
エロ関連でよくネタにされる「マンコ・カパック」や「滅満興漢」とはまた違った、味のある単語である。
深夜番組「カノッサの屈辱」
同名のテレビ番組が1990年~91年、フジテレビの深夜帯(JOCX-TV2)で放送された。
日本国内でのあらゆる消費文化の歴史を世界史に準えて紹介するという、ホイチョイプロダクションらしい、教養番組のふりをしたバラエティ番組であった。
案内人として、俳優の仲谷昇が「教授」として登場。決まり文句は「やぁ皆さん、私の研究室へようこそ」。
人気は高く、本放送終了後にも数回特別版が放送されている。
また同時期に放送されていたバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」では、その名も「加納さんの屈辱」というコーナーコントを行っていた。
教授を若仲谷昇(わかなかや のぼる)名義で内村光良が、講義の邪魔をする中年男、加納さんを南原清隆が演じている。
後に「加納さん」名義でCDシングル「加納さんのいいんじゃないッスか」がリリースされるなど、ちょっとした名物だった。