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概要編集

アメリカ史(アメリカし、英語:History of the United States)は、アメリカ合衆国の歴史である。1607年5月にアメリカはイギリスの植民地として統治され、1775年4月にアメリカ独立戦争が開戦した。同年6月にジョージ・ワシントンは大陸軍の総司令官となり、1776年7月にこの戦争を勝利へ導いて独立宣言を発表し、アメリカ合衆国という世界初の連邦共和国を成立させた。


植民地時代編集

1607年5月にイングランド王国は北アメリカ大陸の東海岸に、最初の永続的な植民地であるバージニア植民地を建設した。その後はイギリス本国で迫害されるピューリタン(清教徒)の移民が増加し、ニューイングランド(東海岸北部)の植民地の建設が進む。1664年8月にイングランドはオランダの植民地であるニューアムステルダムを占領し、ニューヨークなどの中部植民地を建設した。


1622年3月にバージニア植民地でインディアンの虐殺が発生し、アメリカン・インディアン戦争が開戦した。1890年12月にフロンティアの消滅が宣言され、海外に新たなフロンティアを求める風潮が強まり、アメリカは帝国主義的傾向を強めていく。


更にカロライナやジョージアなどのバージニア以南に南部植民地を拡大し、1732年6月までにカナダとフロリダの間の東海岸に13植民地を建設した。1763年2月にフレンチ・インディアン戦争が終結し、その結果イギリスは北アメリカからフランスの勢力を駆逐する事に成功し、北アメリカの植民地はカナダミシシッピ川の東方面にまで拡大した。


植民地の多くはイギリスの君主が任命した総督の統治下に置かれ、これを補佐する参事会や代議制議会は植民地の富裕層で占められていたが、アメリカ国内の植民地には迫害から逃れてきた移民が多かったので自由主義的な風土が育った。イギリス本国における議会政治の発展の影響もあり、各植民地の自治組織が発達し、それに伴って植民地人の権利意識が強まっていった。


イギリス本国の政府は先住民のインディアンとの関係改善の配慮から植民地人の西方進出を禁止したり、本国の財政の窮状を打開するべく重商主義政策を強化して植民地からの搾取を強化していた為、植民地人の本国に対する不満が高まっていった。特に1765年3月の印紙法や1767年6月以降のタウンゼンド法は強く反発され、後に撤回されたが本国と植民地の関係を修復不可能にした。


独立戦争編集

1773年5月にイギリスが茶法を成立させた事でアメリカ市民の反発が強まり、同年12月にこの市民たちがイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地のボストンで起こしたボストン茶会事件で本国との国家関係は急速に悪化した。1775年4月にアメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)が勃発し、この戦争ではフランススペインオランダが13植民地を支援した。


その最中の1776年7月4日に「自由・平等・幸福の追求」を「人間の天賦の権利」とし、その権利を守るために独立する諸権利を高らかに謳った独立宣言が発せられた事で、13植民地はイギリスから独立した連邦共和国となった。これらの諸邦は連合規約を制定して地方分権の強い連合組織を形成し、この7月4日は独立記念日としてアメリカの祝日となっている。


当初の戦況はジョージ・ワシントンが率いるアメリカ軍に不利だったが、1777年10月のサラトガの戦いにアメリカが勝利して流れが変わり、フランスと同盟を結んでその支援を受け、1781年10月のヨークタウンの戦いに勝利してアメリカの勝利は確実となった。1783年9月にパリ条約が締結されてイギリスから独立を承認され、それによってアメリカの国土はミシシッピ川まで拡大した。


アメリカ合衆国の誕生編集

独立当初の邦連合は中央政府である連合会議に課税権・通商規制権・常備軍が無い上に基盤が脆弱だった為、強力な中央政府の樹立を求める声が強まり、1787年5月にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、1789年3月に中央集権的な連邦共和国を目指す憲法が施行された。


この中央集権的なシステムには批判が多かったが、連邦派(Federalists)の活躍で憲法は無事に批准され、1789年4月にジョージ・ワシントンが初代大統領に選出され、ここにアメリカ合衆国が誕生した。当時の世界情勢は専制君主制が一般的で、民主主義の共和国は極めて珍しかった。


西漸運動(西部開拓)編集

19世紀を通じてアメリカは西方に領土を広げ、そこにあるフロンティア(白人が入植していない未開拓地域)を開拓するという西部開拓に熱心に取り組んだ。1801年3月にトーマス・ジェファーソンが大統領に就任し、1803年4月にフランスのナポレオン・ボナパルトがスペインから獲得したばかりのフランス領ルイジアナを購入し、これでアメリカの国土は倍近くに拡大した。


ナポレオン戦争中に通商をめぐってイギリスとの軋轢が深まる中、カナダやフロリダに対する領土の拡大を狙って1812年6月に米英戦争が開戦したが、イギリスとアメリカはどちらも決定的な勝利を得られず、カナダの解放は実現しなかった。しかしスペイン領だったフロリダ西部を獲得する事に成功し、さらに1819年2月にフロリダ東部も購入してフロリダ全域を獲得した。


1823年12月にモンロー主義を宣言し、ヨーロッパとアメリカの相互不介入・再植民地化の反対を表明した。これは孤立主義的な外交姿勢だけでは無く、西半球でのアメリカの指導的地位の意識を示したものでもある。専制主義のヨーロッパと異なる民主主義の共和国を西半球で成立させたアメリカ人の自負心は自らこそ最良の文明化の担い手であり、西方に対する領土の膨張は神から与えられたアメリカの使命と見做す「マニフェスト・デスティニー」の思想に結び付いた。


1845年3月にジェームズ・ポークが大統領に就任し、西方拡張は一層推し進められた。1845年12月にテキサス共和国を併合し、1848年2月に米墨戦争メキシコを破り、同月に広大な土地を獲得して太平洋岸に達した。ここにアメリカは両大洋に跨る巨大な連邦共和国となり、カリフォルニアで豊富な金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが発生して西漸運動は更に加速した。


西部開拓はフロンティアにおける開拓者の厳しい生活・開拓を克服しながら実行された為、フロンティア・スピリットと呼ばれる独立自営・相互扶助・剛健・忍耐・創意工夫・闘争心といった開拓精神をアメリカ人に残した。これはやがてアメリカ民主主義の基本精神にも昇華した一方で、西部開拓は先住民であるインディアンの駆逐・黒人奴隷の連行といった悲劇をもたらした歴史がある。


南北戦争と奴隷制の廃止編集

西部に領土を拡大させている最中に北部では工業化が進んだ一方で、南部は黒人奴隷を酷使したプランテーション経営が発展した。領土の膨張が進む中でこれらの地域での奴隷制の是非をめぐって、南部と北部の対立が表面化した。


1860年アメリカ合衆国大統領選挙で奴隷制に反対するエイブラハム・リンカーン共和党の大統領候補)が当選すると、反発した南部州は連邦から脱退して1861年2月に南部連合を結成し、同年4月からアメリカは南北戦争という内乱へ突入した。1865年5月に南北戦争は北軍の勝利に終わって奴隷制度は廃止されたが、敗戦地にされた南部州に北部州・リンカーン・共和党に対する根深い遺恨を残し、南部の失われた大義といった怨念史観も生じた。


工業化と帝国主義と列強への道編集

19世紀中頃からアメリカの工業は飛躍的に発展し、その末期までにはイギリスを抜いて世界最大の生産力を誇る工業国となった。拡大する鉄道・鉄鋼・石油など多くの産業分野で巨大な独占企業が出現した。


労働力の需要も著しく増加して移民も激増したが、この時期の移民の多くは南ヨーロッパ(イタリア系など)や東ヨーロッパ系(ポーランド系など)であった。こうした新しい移民は従来の西ヨーロッパや北ヨーロッパからの移民より貧しい者が多く、政治的・宗教的にも異質な面が多かったので同化が困難であり、問題を起こす事も多かった一方でアメリカ国民の多様性を豊富にした。


1893年1月にハワイ王国を滅亡させ、1898年12月に米西戦争でスペインを破ってキューバを事実上の保護国にし、プエルトリコグアムフィリピンを獲得した。同年8月にハワイを併合し、カリブ海から西太平洋にかけた広範囲の植民地帝国を形成した。出遅れた中国の分割にも参加する為、1899年9月から中国について門戸開放を訴えるようになった。


1903年1月に強引な手段でパナマ運河地帯を獲得し、1909年3月にウィリアム・タフトが大統領に就任してからは、南アメリカに対する内政干渉権を主張してドル外交を展開した。西半球から太平洋への戦略上の要地を確保する事に血道をあげ、海外市場に積極的な進出を狙った。こうしてアメリカは帝国主義時代にあって、列強諸国の1国として認識されるようになった。


2度の世界大戦と超大国への道編集

1914年7月にヨーロッパで勃発した第1次世界大戦に当初は中立を宣言していたが、経済的には連合国と結びつきを強めていた為、1917年4月に民主主義の擁護を掲げて連合国側で参戦してドイツ軍と戦った。その最中に当時のウィルソン大統領は14か条の平和原則を提唱し、1920年1月に国際連盟が設立されるのに主導的な役割を果たしたが、アメリカ自身は国際連盟に参加しなかった。


アメリカはこの大戦では本土が戦火に晒されなかったので未曽有の繁栄を謳歌したが、1929年10月に株の大暴落を契機とした大恐慌が発生し、アメリカと世界が大混乱に陥った。1933年3月にフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任し、景気の回復を目指して「ニューディール政策」を打ち出したが、景気が上手く回復せずに第2次世界大戦の軍需での回復を待つ事となる。


1939年9月にヨーロッパで第2次世界大戦が開戦すると当初は中立を宣言したが、武器貸与法で連合国を実質的に支援し、1941年12月に枢軸国側であった日本真珠湾攻撃によって連合国として参戦した。1945年8月に世界で初めて原子爆弾広島長崎に実戦で投下し、同月に日本が降伏して大戦は連合国の勝利に終わり、1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結された。


東西冷戦編集

1945年9月に第2次世界大戦が終結した後、圧倒的な軍事力と経済力を維持して戦勝国の中心となったアメリカは、ソ連と共に世界の超大国に君臨した。戦後の世界はアメリカをリーダーとする自由主義民主主義資本主義諸国で構成される西側諸国と、ソ連をリーダーとする共産主義社会主義諸国で構成される東側諸国に二分されて対立した。


1949年10月に中華人民共和国が成立し、1950年6月に朝鮮戦争が開戦した。南アメリカ・東南アジア諸国に対して共産主義が浸透するなどで東側の脅威が高まる中、国内では赤狩りを実施して共産主義者を追放し、国際的にはマーシャル・プランやガリオア・エロア資金などによって西ヨーロッパ・日本など戦争で弱体化していた西側諸国に大規模な経済援助を実施しつつ、北大西洋条約機構日米同盟などの反共軍事同盟を整備した。


1959年1月にキューバ革命が成功に終わってキューバの共産化を阻止できず、ベトナム戦争に介入するもベトナム全土の共産化を阻止できないなど東側に追い詰められた時期もあった。しかし同じ東側陣営である中国がソ連と対立して朝鮮戦争から続いていたアメリカと中国の対立関係を改善し、1979年1月に外交関係を樹立してソ連を牽制した。


1981年1月にロナルド・レーガンが大統領に就任し、東側陣営に積極的な軍拡競争を仕掛け、その負担に耐えきれなくなったソ連は1991年12月に崩壊した。東ヨーロッパ諸国の共産主義の独裁政権も、1989年6月からはそれに先立つ東欧革命で次々と打倒されて民主化が進んだ。同年12月にマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、こうして東西冷戦は西側諸国の勝利に終わった。


ポスト冷戦期編集

1991年12月にソ連が崩壊してからは、アメリカが世界唯一の超大国として君臨し、アメリカによる平和(パクス・アメリカーナ)と呼ばれるアメリカの一極支配で国際秩序が保たれる時代が到来した。1990年8月にクウェートへ侵攻したイラクを阻止するべく1991年1月に湾岸戦争を開戦し、強大な戦力で国際秩序を保って「世界の警察官」と呼ばれた。その一方で1989年12月にパナマを侵攻した時のように、国際連合を無視した単独主義での介入には批判の声が挙がった。


2001年9月に9.11が発生したのを契機に小ブッシュ大統領は、テロとの戦いを標榜して対テロ戦争を展開した。このテロの首謀者であったウサマ・ビンラディンを匿うアフガニスタンのタリバン政権に対して報復攻撃(アフガニスタン紛争)を開始し、この政権を打倒してカルザイ政権の樹立を支援した。次いで2003年3月に大量破壊兵器を保有しているとしてイラク戦争を開始し、サダム・フセイン政権を崩壊させてイラクに民主主義のシステムを構築した。


アフガニスタンとイラクは、戦後に反アメリカ勢力によるテロが相次いで混乱が尾を引いた。対テロ戦争は2011年5月に首謀者のビンラディンを殺害した事で成功し、テロとの戦いに一応の区切りをつけたが、アラブの春による混乱・その後のイスラム国の台頭もあって中東情勢の不安定化は続く事になる。経済では2008年9月にリーマンショックが発生し、その混乱は国内・世界中に波及した。2009年1月にアメリカで黒人として初めて、バラク・オバマが大統領に就任した。


21世紀に入ると新興国で特にソ連が崩壊した後も、共産党の一党独裁を維持していた中国が経済・軍事的に台頭するようになった。欧米・日本など従来の先進国の経済的な低迷も重なって、ソ連が崩壊して以来のアメリカ一極支配が弱まる一方で、中華人民共和国がアジア太平洋地域を中心に海洋進出を強行するなど覇権主義を強め、西側諸国と対立する局面が増えた。こうして世界は再び冷戦時代のような不安定化の様相を呈していく。


米中新冷戦と現代編集

2017年1月にドナルド・トランプが大統領に就任し、アメリカ第一主義を掲げて経済の立て直しを目指した。しかし2020年1月に中国発の新型コロナウイルスが世界的に感染を拡大させ、アメリカもパンデミックの中心地として経済・社会面で打撃を被り、同時にアメリカ国内ではブラック・ライヴズ・マター運動のような人種間の分断も表面化した。それまで公然と中国を批判するのを避けてきたアメリカだったが、ここで方針を変えて中国がコロナウイルスを拡大させた責任・覇権主義を批判するようになって米中対立が本格化し、その国際情勢は「米中新冷戦」と呼ばれている。


2021年1月にジョー・バイデンが大統領に就任し、その政権でもアメリカと中国の対立は続いている。同年8月にバイデン政権は中国の問題に集中する為、アフガニスタンに駐留しているアメリカ軍を撤退させた。これで同時多発テロの時から20年も続いてきた紛争を終結させたが、タリバン政権が復活してアフガニスタンの人権問題が再燃する事となった。


2022年2月にロシア・ウクライナ戦争が開戦し、ウクライナを支援する欧米・日本などの西側諸国とロシアの対立が深まり、中国とロシアに接近の動きがあった。混迷を深める国際情勢の中で、世界唯一の超大国としてのリーダーシップをいかに発揮できるかが問われている。


関連項目編集

アメリカ合衆国の政治 アメリカ合衆国の社会問題


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