概要
ミシシッピ川とは、北アメリカ大陸を流れる河川の一つである。源流はアメリカのミネソタ州で、メキシコ湾に注いでいる。アメリカで2番目に長い川となっている。
主な支流にはミズーリ川やオハイオ川などがあり、ミズーリ川源流からミシシッピ川河口まで5,971kmと、北アメリカ最大の水系である。水源に降った雨が河口まで達するのに約90日かかるほど流れが穏やかである。
名前の由来は、オジブワ族インディアンの言語で「偉大な川」を意味する"misi-ziibi"や「大きな川」を意味する"gichi-ziibi"から。
かつては世界一長い河川として知られ、ギネスブックにもそう記載されていた。だが、後に源流部の探検や探索が進むとナイル川やアマゾン川、長江のほうが長いことがわかり、現在は世界で4番目に長い川(支流のミズーリ川を経由した場合)となっている。
歴史
ヨーロッパ人到来以前
西暦800年ごろから、インディアン文化の一つであるミシシッピ文化が広まった。この文化は、トウモロコシの農耕を基盤とした首領制国家で、マウンド(墳丘)を築くという特徴があった。セントルイス近郊にあるカホキアという遺跡が有名。ミシシッピ文化は変化しながらヨーロッパ人の到達まで継続していた。
ヨーロッパ人到来以降
ミシシッピ川に到達した最初のヨーロッパ人は、記録が残っている中ではスペイン出身のエルナンド・デ・ソトという人物で、1541年5月8日のことである。彼の探検隊は下流域を探検した。彼らの持ち込んだ伝染病がミシシッピ文化にも渡り、人口も大きく減少した。
その後は、相次いでフランス人がミシシッピ川に到達した。こうしてフランスは植民地を建設し、ミシシッピ川水系はフランス領ルイジアナ植民地となった。1718年にヌーヴェル・オルレアン(現ニューオーリンズ)が建設されて栄えた。
フランスの領有権の主張は、イギリス植民地の発展と対立しており、両国間で戦争が断続的に100年以上続いたが、最後のフレンチ・インディアン戦争でフランスは大敗、フランス領はイギリスとスペインに割譲され、北米大陸の領土がなくなった。こうしてミシシッピ川は東部がイギリス植民地、西部がスペイン植民地となったが、1775年からのアメリカ独立戦争でイギリスは敗北、ミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国領になった。
アメリカ領時代
1792年には、バージニア州からケンタッキー州として分離した。次いで1796年にはテネシー州が成立した。
一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、それを1803年にアメリカはフランスから1500万ドルで購入し、ミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となった。それ以降、さまざまな探検隊がミシシッピ川近辺及び西部を探検した。
1812年にルイジアナ州が成立したのを皮切りに、ミシシッピ州(1817年)、イリノイ州(1818年)、ミズーリ州(1821年)、アーカンソー州(1836年)、アイオワ州(1846年)、ウィスコンシン州(1848年)、ミネソタ州(1858年)と続々と成立した。
蒸気船の開発によってミシシッピ川水路の利用が容易になると、ミシシッピ川交易が本格化し、国内交通の柱となった。
南北戦争の際、ミシシッピ州、ルイジアナ州、アーカンソー州、テネシー州がアメリカ連合国に参加し、ミシシッピ川も戦場となった。
南北戦争が終わると、流域は再び全域がアメリカ合衆国領に戻った。それ以降も、ミシシッピ川の河川輸送は重要であり続けている。
沿岸部
ミネソタ州、ウィスコンシン州、アイオワ州、イリノイ州、ミズーリ州、ケンタッキー州、アーカンソー州、テネシー州、ミシシッピ州、ルイジアナ州の計10州を流れている。セントルイスやメンフィス、ニューオーリンズなどの都市があり、ミシシッピ川の流れが穏やかであることを生かした水運などが経済の中心となっている。
また、豊富で肥沃な土地は綿花栽培に適していたため、一帯は綿花で繁栄を成した。その一方で、しばしば大規模な洪水ももたらしている。