キ64
きろくじゅうよん
1940年8月、日本陸軍は川崎航空機に対し「時速700キロ出す戦闘機のひな形を作れ」と命じた。それに応える形で作られたのがこのキ64である。
川崎航空機は1939年から液冷エンジンを串形に乗せた飛行機の研究をしていたのだが、それが日本陸軍の知れるところとなり、先の要求へと至った訳である。
ダイムラー・ベンツDB601Aをライセンス生産したハ40を、機体前方だけでなく操縦席の後ろにも乗せて連結(これが串形と呼ばれる)した『ハ201』エンジンを搭載。
さらには二つのプロペラを同軸上で反転させる二重反転プロペラを採用した。
これはプロペラの回転によって生じるカウンタートルクを相殺し、さらに推進効率を向上させるメカニズムだが、構造は当然複雑なものとなった。
それに加え、冷却系にはドイツ・ハインケルのHe100やHe119のものを参考にし、翼面蒸気冷却を採用している。
液冷エンジン機は機首を細くできるため正面空気抵抗は減るが、ラジエーターが外部に突出しているため、それが空気の流れを乱してしまう。
翼面蒸気冷却は加圧した水を渦流遠心蒸気分離器で蒸気化し、気化熱でエンジンを冷却、発生した水蒸気は主翼へ送られ、翼に当たる風で冷やされて水に戻り、再びエンジンへ循環されるというシステムである。
要するに翼そのものをラジエーターにしてしまうことで、機体に余計な出っ張りを作らずに済み、空気抵抗が減るのである。
そのためキ64は三式戦闘機飛燕などと違い、下面には小さなオイルクーラーのみが露出している。
これら新機軸の組み合わせによって合計2000馬力以上・最高速度780km/hを目指したという。
なお試作機は非武装だったが、翼に20mm機関砲を2~4門搭載する予定であり、そのためのスペースは設けられていた。
1943年12月に初飛行に成功したものの、5回目の飛行でエンジン火災により不時着。
破損箇所は修理はできたが、プロペラとエンジンを換装することに決定した。
しかし工場が量産エンジンの生産で手一杯だったため、いつの間にか計画は事実上放棄されたまま終戦を迎えた。
「機体設計の技術にエンジンの技術が追いついて入れば、最高速度800km/hさえ夢ではなかった」とさえ言われる機体だが、結局のところ特殊な機構を詰め込みすぎたせいで、当時の日本の工業力では扱いきれない機体になってしまったと言える。
見た目の異形ぶりから震電にばかり目がいくが、中身を見ればキ64はそれ以上の浪漫兵器と言えるだろう。