概要
ジュール・ビランキは、フランスのニース出身のドライバー。1989年生まれ。2015年死去。
後述のように、ビアンキは、1994年のアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガー以来、最後のF1における死亡事故の犠牲者である。
初期の経歴
ビアンキは10歳の時にフランスのゴーカル選手権に参加してレースキャリアをスタートさせ、フランスジュニア選手権で優勝、2004年にはヨーロッパジュニア選手権で2位になるなど、早くも成功を収めた。その後、F3ユーロシリーズ、GP2シリーズ、フォーミュラ・ルノー3.5など、さまざまなジュニア選手権に参加した。2009年、ビアンキはスクーデリア・フェラーリのドライバー育成プログラムであるフェラーリ・ドライバーズ・アカデミーに参加した最初のドライバーとなり、このプログラムはF1イベントに参加する若いドライバーを教育することを目的としていおり、後述のシャルル・ルクレールもそのうちの一人である。
F1キャリア
ビアンキは2012年シーズン、フォース・インディアチームのフリー走行ドライバーとしてF1に参戦し、9レースに出場した。2013年シーズン、マルシャチームからオーストラリアGPで公式レースデビューを果たし、15位でレースを終えた。シーズン中、ビアンキはノーポイントに終わり、最終的なドライバーズ選手権ランキングは19位となった。ベストフィニッシュはマレーシアGPの13位だった。マルシャチームは、2014年シーズンもビアンキを起用した。モナコGPでビアンキは9位でフィニッシュし、自身とマルシャチームにとって初のポイントを記録した。
2014年鈴鹿死亡事故
2014年10月5日に鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリで、ビアンキは非常に濡れた路面コンディションでレースカーのコントロールを失った後、トラックサイドのクレーンに衝突した。この事故により、ビアンキはびまん性軸索損傷を負った。その後、彼は一連の手術を受け、2015年7月17日に亡くなるまで昏睡状態に陥った。ビアンキの死は、イタリア・エミリア・ロマーニャ州イモラのアウトドローモ・エンツォ・エ・ディノ・フェラーリで行われた1994年のサンマリノGPで起きたアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故以来、過去20年間のF1レースにおける事故死となった。2023年まで、ビアンキの事故はF1レースで発生した最新の死亡事故となる。
余談
モナコ出身のシャルル・ルクレールとは、幼馴染であり、ビランキの死後、フェラーリドライバーズアカデミーに加入を果たし、2019年にビランキが叶わなかったフェラーリ入りすることができた。また、2024年の鈴鹿で走った際のヘルメットはビランキの遺品である。また、同郷のピエール・ガスリーとも仲が良かった。
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アイルトン・セナ・ ローランド・ラッツェンバーガー…F1のレース中で死亡した。
シャルル・ルクレール…幼馴染の現役F1レーサー