概要
日本光学工業(現:ニコン)が1959年に発売した、同社初の一眼レフカメラ。
日本製の一眼レフカメラが国際的に定着する決め手となったモデルであり、ニコンの名前を世界的に知らしめた名機と評価されている。
「F」は「反射」を意味する英単語"Reflex"から採られている。「R」にしなかったのは海外、とりわけアジア圏での発音が定まらないことを嫌ってのことだった。
経緯
当時日本光学が販売していたレンジファインダーカメラ「ニコンS」シリーズのセールスは好調であったが、レンジファインダーカメラは構造上、極端な超望遠距離や近接距離での撮影に難があった。
一方で一眼レフカメラはミラーを内蔵するが為にレンズの設計に大いに制約がかかることがあった。
1954年、ドイツのエルンスト・ライツは新しいレンジファインダーカメラのM3を発表。その精緻なる構造はニコンを含め日本のカメラメーカーをレンジファインダーが撮れないものが撮れる一眼レフへと方向転換させるには充分すぎるものだった。
日本光学はレンズ設計上の制約や当時の一眼レフにおいて嫌われる要因であった脆弱性などを克服し1959年に同社初の一眼レフカメラとしてニコンFを発売した。
構造
先に発売されていたレンジファインダーカメラのニコンSPのボディを半分に切断しミラーボックスを埋め込んだものと言われている。シャッターダイヤルの周囲や理不尽な場所にあるシャッターボタン、完全に外れる裏蓋などをそっくりそのまま継承し、逆にそれ以外の場所にはあまり手が加えられた形跡がない。
ファインダーやスクリーンは脱着可能で撮影条件に応じて最適なものに交換できた。AF全盛の現在では想像し辛いかもしれないがレンズの焦点距離や明るさによってスクリーンを交換できることは大いに助かることである。
レンズは交換式で新たにニコンFマウントが設計された。これは現在までニコンの一眼レフカメラに採用され続けられる規格となった。
評価
ニコンFは優秀なレンズ群と豊富なオプションによって、従来プロの現場で用いられていた中版、大判カメラを追いやるに至った。特に東京オリンピックやベトナム戦争の最前線で活躍しその名を大いに轟かせ、職業写真家=一眼レフのイメージの形成に成功した。
しかしながら、使用者の評価は分かれるところで、前述のとおり理不尽な場所にあるシャッターボタンやストロボを外さないと操作できない巻き戻しクランク、完全に分離してしまう横開き式より明らかに不便な裏蓋など今ひとつ煮詰まっていない点が無いわけでもなかった。
それでも、堅牢性や豊富なオプションによる拡張性は良好と皆評価が一致するところであり1971年に後輩たるF2が発売されるまで、あらゆるクレームに耐えながらも改良を続け12年もの間販売された。
受賞
1966年、通産省(現・経済産業省)グッドデザイン賞を受賞。
2019年、国立科学博物館が指定する「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」に指定。指定番号00280、指定理由は「世界が認めた一眼レフカメラの完成形」。
2020年、日本機械学会が指定する「機械遺産」に指定。先輩にあたるアサヒフレックスI・IIB、ミランダT、ズノーペンタフレックスとまとめての指定となった。
「F」のその後
1971年に後継機となる「F2」が発売される。ニコンFとフォルムはそっくりだが、ボディの角が取れ、シャッターボタンも押しやすい位置に移動するなどほぼ完全な新規設計となった。それでもニコンFは好評を受け、1974年9月まで生産が続けられた。
以降も「F+数字1ケタ」はフラッグシップ機の代名詞となり、
- 1980年発売、20年の長期にわたり生産されたロングセラー「F3」
- 1988年発売、初のオートフォーカス搭載フラッグシップ「F4」
- 1996年発売、ニコン一眼レフの新たなデザインスタンダードを作った「F5」
- 2004年発売、ニコンフィルムカメラの最後を飾った「F6」
とその系譜が続いた。
またデジタル化以降も、1999年の「D1」に始まる通称「D1桁シリーズ」が、フラッグシップ機の象徴として数字1ケタの精神を受け継いでいる。
それぞれF2、F3、F4。
関連イラスト
フォトミックファインダー搭載機。