概要
1918年6月13日、ヘルムート・ヨハネス・ジークフリート・レントはドイツ帝国プロイセン王国のピレネーでルター派牧師であるヨハネス・レントの五男として誕生した。
グライダー飛行に興じ、ヒトラーユーゲントでの活動、国家奉仕団従事を経て1936年4月1日にドイツ空軍に入隊。
1938年7月1日、第132戦闘航空団第3飛行隊に配属される。
11月1日、第132戦闘航空団から第141戦闘航空団に改名された航空団第2飛行隊第6中隊長に就任し、更に第76駆逐航空団と改名した同航空団第1飛行隊で少尉として1939年9月1日からの第二次世界大戦を迎える。
Bf110を駆ってポーランド、ノルウェー、バトル・オブ・ブリテンの戦いに参加し、特にノルウェー戦での活躍で有名となり、1940年5月13日にその功で一級鉄十字章を叙勲され、7月1日には中尉に昇進し、8機撃墜の戦果を挙げていた。
その後、夜間戦闘機への転属が決まり、10月1日、第1夜間戦闘航空団に第2飛行隊第6中隊長として配属される。
1941年7月1日、第1夜間戦闘航空団第2飛行隊第4中隊長に就任。
8月30日、騎士鉄十字章を叙勲。
11月1日、第2夜間戦闘航空団第2飛行隊長に就任。
1942年1月1日、大尉に昇進。
6月6日、柏葉騎士鉄十字章を叙勲。
10月1日、第1夜間戦闘航空団第4飛行隊長に就任。
1943年1月1日、少佐に昇進。
8月2日、柏葉剣付鉄十字章を叙勲し、11日には第3夜間戦闘航空団司令に就任。
1944年6月15日、3機の爆撃機を撃墜し、夜間戦闘での100機超えである102機の撃墜を達成。(総数では110機)
7月31日、ダイヤモンド飾り柏葉剣付鉄十字章を叙勲。
10月5日、第1夜間戦闘航空団司令ハンス・ヨアキム・ジャブス中佐との作戦会議の為にパルデルボルン飛行場に操縦するJu88G-6で昼間着陸する際に片方のエンジンが故障して安定を失い、電気ケーブルに引っ掻かった機体はもんどりうって大破し、同乗していた三人のうち一人、そして長年のレント中佐の乗機の相棒だったヴァルター・クービッシュ軍曹の二人が即死、一人は翌日に死亡し、残る重傷を負ったレント中佐は二日後に絶命した。
死後、大佐の階級が贈られた。
総撃墜数は110機。夜間戦闘での戦果は102機であり、夜間戦闘でのエースではドイツ空軍二位の戦果であった。
逸話
●夜間戦闘機への転属には強い不満を持っており、また転属後は一機の戦果も挙げる事は出来ず、1940年12月には上司である第1夜間戦闘航空団司令ヴォルフガング・ファルク少佐に「(夜間では)なにも見えない」との理由で昼間戦闘隊への転属を願い出ている。
しかしファルク司令から「あと一ヶ月はやってみろ」と慰留され、その後も戦果は無かったものの1941年5月11日~12日にウェリントン爆撃機2機を撃墜し、その後は順調に戦果を重ね、年末には20機撃墜を果たしてドイツ空軍の夜間戦闘撃墜数三位にまで昇りつめた。
●1943年1月にドイツ本土上空にも姿を見せたアメリカ重爆撃隊に対して、昼間戦闘部隊の不足、そして駆逐航空団も東部・地中海戦線に派遣されている状況から、それらの戦力を呼び戻すまでのつなぎとして夜間戦闘機部隊にも昼間迎撃が要請され、第1夜間戦闘航空団第4飛行隊も出撃したが、指揮官であるレント少佐には夜間戦闘機エースである彼が戦死する事を恐れた上層部により出撃は許されず、代わりに第11飛行中隊長ハンス・ヨアヒム・ヤープス大尉が指揮をとることとなった。
この昼間迎撃は夏まで続き、イギリス爆撃機の7.7㎜機銃より強力な12.7㎜機銃を持つアメリカ重爆撃隊の対空火力、そして夜間戦闘の要領で目標に近づきがちであった事などから夜間戦闘機部隊は多くの犠牲を出し、その中には第12飛行中隊長で当時46機撃墜の夜間戦闘機エース第三位で、柏葉騎士鉄十字章叙勲者のルートヴィヒ・ベッカー大尉も含まれていた。
●1944年3月22日の戦闘で僅か22発の弾薬で2機の爆撃機を、更に6月15日は7分間で57発の弾薬消費のみで3機の爆撃機を撃墜する驚異的な腕前を見せた。
●妻となったエリザベス・ピーターセンは本名エレーナ・セノコスニコワというモスクワ生まれの女性であり、ナチス的思想では劣等種族のスラブ人として迫害される恐れを抱いていたが、調査がなされた後に1941年3月にドイツ市民権が与えられ、レント中尉は9月10日に彼女と結婚することが出来、二人の娘を得ている。
●告発教会の牧師である二人の兄ヴェルナーとヨアキムは反国家的とみなされ逮捕されている。
●ダイヤモンド飾り柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲した夜間戦闘撃墜エースはレント大佐と一位のハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー少佐だけであった。