経歴
1922年2月16日、ヴュルテンベルク州カルフに生まれる。
国立政治学校であるナポラを優秀な成績で卒業し、またグライダー操縦Bライセンスも取得した。
1939年11月5日にドイツ空軍に入隊。
1941年11月初旬、第1夜間戦闘航空団第2飛行隊第5飛行中隊に少尉として配属される。
1943年7月1日、中尉に昇進。
8月13日、第4飛行隊第12飛行中隊長に就任。
12月31日、24機撃墜の功により騎士鉄十字章を叙勲。
1944年3月1日、第4飛行隊長に就任。
5月1日、大尉に昇進。
6月24日、84機撃墜の功により柏葉騎士鉄十字章を叙勲。
7月30日、柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲。
10月9日、100機撃墜を達成し、16日には夜間戦闘機エースとしてはヘルムート・レント大佐に続き二人目にして、最後になるダイヤモンド飾り柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲。
11月20日、第4夜間戦闘航空団司令に就任。
12月1日、少佐に昇進。
1945年4月9日、3月より出撃禁止命令を受けていたが出撃するも戦果なし。これが最後の出撃となった。
5月、エッゲベクでイギリス軍の捕虜となり11月に解放される。ジフテリアに罹患しており入院していた。
実家に戻り、ワイナリーの家業を継いだ。だが飛行機を飛ばす夢は捨てきれず、友人のゲオルク=ヘルマン・グライナー(50機(うち46機が夜間撃墜)撃墜の夜間戦闘機エース)と南アメリカでパイロット関連の職業で生計を立てようと決意し、スイスのベルンで南アメリカの外交官と会う為に1946年9月に不法に国境を越えるも会談は失敗し、更にドイツに戻ろうとする際に国境警備隊に逮捕され半年後に釈放される。
1950年7月13日、フランスのボルドーで交通事故に遭い、15日に病院で死亡した。
総撃墜数は121機で、夜間での撃墜数ではドイツ空軍一位の戦果であった。
逸話
●戦歴は一貫して夜間戦闘機パイロットであり、撃墜した121機は全て夜間戦闘で撃墜したもので、1945年2月21日には未明に2機、夜には僅か19分で7機撃墜という腕前を見せている。撃墜戦果のうち114機は搭乗員の多い重爆撃機であることからイギリス空軍に最も甚大な人的被害を与えたとも言われる。
また英米軍機を撃墜した数では158機撃墜のハンス・ヨアヒム・マルセイユ、122機撃墜のハインツ・ベーアに次ぐ戦果となっている。
●英米連合軍の空軍将兵からは、シュナウファー少佐が飛行隊長を務めて戦果をあげた第1夜間戦闘航空団第4飛行隊の駐屯地がサントロンに因んで「サントロンの幽霊」として恐れられた。
1945年の彼の誕生日にはBBCが誕生日祝いとして「幽霊」という30年代のキャバレーソングを送るという英国的ユーモアあるはからいをしている。
●搭乗したのは最後までBf110で一貫していた。シュナウファー少佐のBf110G-4/U-8は戦後にイギリスのハイドパークで展示され、そのうち彼の撃墜数が記録された左舷垂直尾翼はロンドンの戦争博物館で保存されており、シュナウファー少佐が乗っていた他のBf110の垂直尾翼はオーストラリアのキャンベラのオーストラリア戦争記念館にあるという。
●シュナウファーの命を奪った交通事故はワインの買い付けでフランスを訪れていた際に起こったものであり、メルセデスベンツW191のオープンカーで幹線道路を走行中に、ボルドーの南で不法に幹線道路に侵入してきたジャン・アントワーヌ・ガスクの運転する空のガスボンベを載せたルノー22トラックと衝突するものであった。
衝突でメルセデスベンツは発火したものの幸いすぐに消し止められたが、収容されたシュナウファーは頭蓋骨骨折の意識不明の状態であり、そのまま二日後に収容された病院で死去した。
夜間戦闘撃墜数二位のヘルムート・レント大佐、三位のハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン少佐、五位のマンフリート・モイラー大尉など多くの夜間戦闘機エースが生きて大戦を終えれなかったなか、厳しい戦争を生き残ったドイツ夜間戦闘機一位のエースの呆気ない最期だった。
死因である頭蓋骨骨折は衝突の激しさを考慮してもそれが原因とは考えにくく、相手の載せていたガスボンベが頭部を直撃した為と推測された。
事件後、裁判で事故当時ガスクは通行権を譲らず、速度も早かったとして有罪とされた。
●1957年12月に故郷のカルフで新たに開発されたヒューデマン地区の通りに地元の英雄としてシュナウファーの名前が冠せられた。
関連タグ
ハイデマリー・W・シュナウファー:彼がモデルとなったストライクウィッチーズシリーズの登場人物。