概要
1839年3月21日、ロシア帝国プスコフ州カレヴォ村の地主階級の家に生まれる。
6歳から母の手ほどきでピアノを始め、フランツ・リストの小品を弾くに至る。
10歳の時にサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。
武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生となるが音楽は大切な存在であり続け、父の出費を受け1852年にピアノ曲『騎士のポルカ』を出版。
在学中にロシアの多数の文化人と出会い、アレクサンドル・ダルゴムイシスキー、ウラディミール・スターソフ、ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイらとの出会いは特に重要だった。
バラキレフの指導を受け歌曲やピアノ曲の習作を手掛けた。
1858年に軍務を退役。バラキレフのもとでベートーヴェンなどドイツ音楽を学び、『4手のためのピアノ・ソナタ』はムソルグスキーでは唯一のソナタ形式の作品である。
一方このころ実家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキーは一家の零落を食い止めようとするが失敗。
以後はペテルブルクで下級官吏として生計を立てつつ歌劇『サランポー』に取り組む。
1865年に母が没すると深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。その一方で写実的な楽曲を手掛け、1866年の『ゴパーク』と『愛しいサーヴィシナ』は翌1867年に初めて自力で出版された作品となった。
1867年に『禿山の一夜』の初稿が完成したが、バラキレフはこれを批判し指揮することを拒んだため存命中は上演されなかった。
このころにスターソフによってバラキレフを中心とした作曲家集団が「ロシア五人組」と称されるようになったが、ムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近。ダルゴムイシスキーの『石の客』に影響を受けて『結婚』を手掛けるが、第1幕のみで放棄する。
1874年に『ボリス・ゴドゥノフ』が初演を迎える。批評家筋の評価は低かったが聴衆には好評で、ムソルグスキーの活動は頂点を極めた。
「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にも関わり、このために『禿山の一夜』の合唱版を作成、『ホヴァーンシチナ』にも着手した。
しかしこれに前後して肉親や知人を次々と失い、アルコール依存症も悪化。文官としての職務も不安定になる。
1880年についに公務員としての地位を終われ、窮乏を知った友人たちは『ホヴァーンシチナ』、『ソロチンスクの定期市』の完成を目指し寄付を集めようとした。しかし『ホヴァーンシチナ』は仕上げまでもう少しというところで完成には至らなかった。
1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われ、3月28日に死去。
増四度を積み重ねる技法や原色的な和声感覚、作曲素材な大胆な対比など印象主義音楽や表現主義音楽の前触れと称される。