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概要

一式機動四十七粍砲は日本陸軍が太平洋戦争の直前に開発が行われ、太平洋戦争期に運用が開始された対戦車砲である。

本兵器は太平洋戦争では敵であったアメリカ軍との対戦車戦闘では、多数のアメリカ軍戦車を破壊するなどの戦果を上げたことで有名。

その反面、敵戦車を正面から破るほどの威力には欠けており、また小口径砲であるため遠距離の命中率が大きく低下することから、常に至近距離からの側面や背後を狙った待ち伏せ射撃を強いられた。さらに加生産力や輸送能力の不足による数量不足の問題も悩みの種であった。これらの問題は戦争の終わりまで解決することはなかった。

起源

本兵器の開発は1940年(昭和15年)から太平洋戦争の直前にあたる1941年(昭和16年)にかけて開発されたが、

そのルーツは1937年(昭和12年)まで遡る。まだ日中戦争が始まるか始まらないぐらいの時期のことである。

当時、日本陸軍は対戦車砲として九四式三十七粍砲を使用していたが、新兵器の開発会議の折に九四式三十七粍砲を大型化した、

次世代の対戦車砲の開発案が提案された。ところが、日本陸軍はこの新たな対戦車砲の開発には乗り気ではなかった。

なぜなら、この時期までの日本陸軍は敵戦車や装甲車と戦った経験は皆無であり、主力対戦車砲であった九四式三十七粍砲も実質的には「対戦車戦闘もできる歩兵砲」の面が強かったとはいえ、性能は充分だと考えられていたためである。

その後はなんやかんやで、九四式三十七粍砲の口径の1cm拡大した、新型の47mm級対戦車砲として開発がスタートし、

その翌年の1938年(昭和13年)の3月には「試製九七式四十七粍砲」として試作品が完成した。

試製九七式四十七粍砲はそのまま性能試験に供され、意外と良い評価をもらったものの、先述の理由からなかなか量産されることはなかった。

それから時は過ぎ、1939年(昭和14年)半ばにソ連との実質的な国境紛争である、ノモンハン事件が勃発する。

なお、ソ連との国境紛争はそれ以前から起きていたが、これらの紛争の中で日本陸軍は本格的な戦車との戦いを経験し、

九四式三十七粍砲も多大な戦果を上げた。ただし、日本陸軍の損害も大きく、戦いは不満が残る結果となった。

ノモンハン事件後、日本陸軍はソ連から奪った兵器で様々な試験を行った。

その際に試製四十七粍砲は九四式三十七粍砲と共に、ソ連製の45mm対戦車砲との比較試験がなされたが、

45㎜対戦車砲の性能は高く、九四式三十七粍砲はもちろん、新型であるはずの試製九七式四十七粍砲ですら、

ソ連の対戦車砲に劣っていることが判明、この頃から開発意欲を上げていた日本陸軍は九七式四十七粍砲を改良した新たな対戦車砲の開発を決定した。これが一式機動四十七粍砲の開発の始まりである。

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