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天津風(駆逐艦)

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あまつかぜ

天津風は、陽炎型駆逐艦の9番艦。8番艦・雪風と並ぶ同クラス、並びに日本海軍屈指の幸運艦である。

概要

舞鶴海軍工廠で1939年10月19日進水、1940年(昭和15年)10月26日に竣工。

第15駆逐隊に移籍した「黒潮」に代わって「時津風」と共に第16駆逐隊に編入。

太平洋戦争開戦時には、第二水雷戦隊第16駆逐隊をこの「初風」「雪風」「天津風」「時津風」の4隻で編成していた。

また第16駆逐隊はさらに第一小隊(雪風、時津風)、第二小隊(天津風、初風)で構成されていた。

特長(高温高圧缶のテストベッド)

当時、列強が建造しつつある新型戦艦の速度は上がる一方だった。

「理想的な(要は魚雷で大型艦を撃沈することを狙った)」艦隊型駆逐艦として完成されたはずの陽炎型だが、速力は新型駆逐艦としてはやや遅い35ノットだった。

駆逐艦による雷撃の成功というものは、如何にして雷撃優位地点に到達できるかにかかっており、その為には何よりも速力が必要だったのだ。

そのためには既存艦よりも10ノット以上の優速が求められていたが、陽炎型の35ノットという速度は敵主力艦を襲撃するには明らかに不足であり、次期主力駆逐艦にはそれ以上の高速性能が求められていた。

一方で、アメリカ海軍の艦艇は、火力発電所からのフィードバックなどで着々と蒸気性状を向上させており、日本海軍の機関は見劣りが明らかだった。

そこで、次期主力駆逐艦に搭載する予定の新型ボイラーを陽炎型に試験的に搭載することになり、その試験艦として選ばれたのがこの「天津風」である。

従来の「甲型」のボイラーが温度350°C、圧力30kg/cm²の蒸気を生み出したのに対し、天津風のボイラーは更に高温高圧の温度400°C、圧力40kg/cm²の蒸気を送り出し、この新型缶の搭載によって低燃費化と機関重量の軽減も実現した。

天津風乗組員には各種学校エリート卒業生が集められ、機関の運転状況や整備状況などの詳細な報告をしていた。試験結果は良好で、海軍は大変満足したとされている。この天津風の成功を踏まえ建造された、新型缶を搭載した次期主力駆逐艦こそ、日本駆逐艦史上に名高い重雷装高速駆逐艦「島風」である。

ただし缶は島風と同一ではなく、「天津風」の出力は同型である陽炎型の52,000馬力に準拠している。というより、駆逐艦でありながら扶桑型戦艦をも上回る約80,000馬力もの出力をもつ「島風」が異常なのである。

またタービンは他の陽炎型と同じだったので最高速力に大差はないが、全速時の燃費は11%向上、航続距離は6%延伸したという。

停滞気味だった日本の造機技術も、天津風の経験で、ある程度挽回に成功したと言えるだろう。

(生産性とかは言ってくれるな。そもそも最初から勝てるわきゃないんだ……

戦歴

初陣

太平洋戦争における「天津風」最初の任務は、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)空母「龍驤」航空隊の支援であった。第二水雷戦隊旗艦「神通」、「初風」と共に一直線に並び飛行機帰投線を構成し、1941年12月8日のダバオ空襲を終えて帰投する龍驤航空隊を誘導・支援している。

続く12日、「天津風」「初風」は第五戦隊(重巡洋艦「妙高」、「那智」、「羽黒」)と合流してそれらの直衛艦となり、レガスピー攻略作戦を支援。

12月20日、ダバオ攻略作戦において、駆逐艦「親潮」と共に陸軍輸送船団の護衛を行った。上陸作戦が開始されると「天津風」は湾内に突入、内火艇を派遣して桟橋一帯の掌握を試みる。

だが天津風の内火艇は連合軍兵の反撃により危機に陥り、しかたなく「天津風」が支援砲戦を開始したところ、ダバオ市内で爆発が発生する。流れ弾がガソリンタンクを破壊したと見られる。

この上陸作戦で「天津風」は小型艇1隻を撃沈、桟橋付近の数十隻を拿捕という戦果を上げた。

ダバオ占領後は、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加している。また各地区において、開戦と同時に拘束されていた在フィリピン邦人の救出も行った。

「空を飛べ!」

1942年1月、夜間の掃蕩任務(いわゆる潜水艦狩り)に参加した「天津風」は、暗い艦橋内で海図を確認していたため小さな島を見落としてしまい、島に直進するハプニングに遭遇する。

迂回して島を避けるにしても、掃蕩は8隻ほどの駆逐艦が横一線に並んで水中探知機により潜水艦を探す作業なので、探知機がカバーできないスペースを作らぬよう他の艦と連携してコースを変える必要があった。

「天津風」艦長は直ちに駆逐隊司令に「前方に島があるのですがどの方向に避けたらいいでしょう?」と打電。程なくして司令から「飛び越えろ」との命令が届く。いくら名前の元が「高天原に吹く風」だからって、あーたねぇ……

流石にこれは冗談であり「ムリなら避けていい」との追加の打電であったため、素直に回避行動を取ったとのこと。

なおこの出撃の経緯というのが、とある偵察機が30頭からなる鯨の群れを発見したのだが、報告の電文を『時々潜望鏡(潮を吹く)を上げ、潜入時、油、及び泡を出す黒色の楕円体なり』とジョーク混じりに報告し、その報告を真に受けた重巡「足柄」にいた司令が首を傾げつつも「潜水艦なら狩るしかない」という事で出撃命令を下したのが事の発端。

確認不足のまま出撃命令を出した足柄の司令も大概だが、こういった正確さが求められる筈の報告にジョークを混ぜたものを寄越した偵察機パイロットの方が輪をかけて大概だった事は言うまでもない。

転戦

2月26日、「天津風」はジャワ島攻略作戦で輸送船団の護衛となりスラバヤ沖海戦に参加。途上でオランダ病院船「オプテンノール」を臨検し拿捕し、その足でスラバヤ沖海戦にて雷撃戦を行う。戦闘後、「オプテンノール」をバンジャルマシン基地へ連行。「オプテンノール」は日本海軍に編入され特設病院船「天応丸」となった。

海戦後は対潜掃討に当たり、3月1日深夜には船団の攻撃に来た蘭潜水艦「K10」を暗闇の中に発見し攻撃。反撃に魚雷を撃たれるなどもするものの「初風」の協力もあって「K10」は大破し、翌日自沈する。

またその後の3日にも他艦と共同で米潜水艦パーチを砲撃により撃沈する。

4月1日、クリスマス島攻略作戦に参加した折、物資揚陸中に軽巡洋艦「那珂」が米潜水艦「シーウルフ」の雷撃により大破。「天津風」は軽巡洋艦「名取」に曳航される「那珂」を護衛して帰投した。

ミッドウェー海戦後は空母機動部隊の再建のため第十六駆逐隊は二水戦から空母直衛を目的とする第十戦隊へと移籍となり、「天津風」は空母機動部隊の一員として第二次・第三次ソロモン海戦や南太平洋海戦などのガダルカナル島を巡る攻防戦に参加し、ソロモン諸島を舞台に死闘を繰り広げることになる。

ソロモン海の死闘

第二次ソロモン海戦では、空母「龍驤」、利根型重巡洋艦「利根」、駆逐艦「時津風」と共に陽動部隊を編制、8月24日に第三艦隊本隊より分離してガダルカナル島へ向かう。

同日、「龍驤」が米空母「サラトガ」艦載機の攻撃により沈没してしまったため、「天津風」は「時津風」と協力して「龍驤」乗組員と不時着機搭乗員の救助を行った。

11月12日、大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦。

敵味方互いに無茶苦茶な陣形で交差しあう中、戦艦「比叡」の発砲により戦闘が始まると、「天津風」は混乱した陣形で衝突する事を避けるために速力を落としつつ軽巡「長良」の後ろについて進み、右前方に敵艦隊を視認すると前方を横切りつつ雷撃を加え数分後に魚雷の命中らしき爆発を確認する。

次発装填装置で魚雷を再装填しつつそのまま前進を続けるが「長良」を見失ったため反転し、集中砲火を浴びて炎上している「比叡」の方へ向かったところ至近距離に巡洋艦を発見、すかさず砲雷撃を加えてこれを撃破する。

しかしこの時に敵味方を確認しようと探照灯を照射していたため集中砲火を浴び大破、第二缶室に被弾・浸水して左舷に14度傾斜、艦上部構造物にも多数の命中弾があり、戦死者45名、負傷者31名を出してしまう。

「天津風」の主砲は動かなくなり魚雷も撃ち尽くしていたため戦闘不能となり、舵も故障して右旋回が止まらず狭い島嶼で座礁しかねない危険な状態となったため、敵前ながらやむを得ず艦を停止させると煙幕を展開しつつ応急修理を行ない、なんとか人力操舵に切り替えるとよろめきながら離脱にかかった。その際に缶に損傷を受けたため速力が20ノット強までしか上がらず、離脱中に夜が明け空襲を受けてしまうが、かろうじて俯仰のみは可能な一番砲塔を艦自体を旋回させて無理やり敵機に向けて撃つという荒業で反撃し、爆撃を逸らしている。

この乱戦から、味方からは一時は沈没したと思われており、後で合流した際にはその生存を喜ばれたという不沈艦エピソードを持つ

一連の戦闘で「天津風」は砲弾151発(残745発)、魚雷16本(残0本)を発射し、巡洋艦1隻・輸送船1隻轟沈、巡洋艦1隻・魚雷艇1隻大破確実を報告した。戦後の調査では天津風の最初の雷撃が駆逐艦「バートン」を撃沈し、反転直後の砲雷撃が防空巡洋艦「ジュノー」を大破させ、照射砲撃中の天津風を大破させたのが大型軽巡「ヘレナ」ではないかと言われている。

トラックに帰投後は工作艦「明石」に接舷して応急修理を行なったのち、単艦で日本本土へ帰投。12月20日、呉軍港に帰還し翌年1月まで呉工廠で修理が行われた。

ちなみに応急修理の際に破孔を数えたところ、直径1メートル以上の大破孔が32箇所、小破孔・弾痕は無数という浮いているのが不思議な有り様で、連日その勇姿を見ようとトラック島中の艦船からの見学者でにぎわったという。

春雨救援

1943年2月15日、「天津風」と第17駆逐隊の姉妹艦「浦風」は空母「瑞鳳」飛行機隊基地員180名と各種物資をパプアニューギニアのウェワクへ輸送すべくトラック泊地を出発。17日に到着して任務を終えたその帰路、ウエワクで米潜水艦の雷撃により大破した駆逐艦「春雨」をトラック諸島まで曳航することになった。だが「天津風」と「春雨」を結ぶ曳航索が途中で切れてしまい、代わりに「春雨」曳航は「浦風」が担当することになった。

さらに悪天候により「春雨」の艦橋部より前部が分断されて水中につかり、船体切断を余儀なくされるという波乱の道中であった。23日、「天津風」達はなんとかトラック泊地に到着し、「春雨」は工作艦「明石」による修理を受けた。

大破、艦体切断! 漂流、それでもなお……

1944年1月11日、第16駆逐隊司令「古川文治」大佐は「天津風」を旗艦とし、「千歳」「雪風」と共に『ヒ31船団』(御宝山丸、厳島丸、北陸丸、建川丸)を護衛しシンガポールに向かう。

1月16日夕刻、南シナ海で浮上していたアメリカ潜水艦「レッドフィン」 を発見。「天津風」は砲撃を加えつつ単艦で接近するが、あと少しの所で日が暮れ見失ってしまう。二時間ほど九三式水中探信儀で水中を探るが敵潜は探知できず、この隙に船団が襲われる可能性を考えて攻撃を打ち切って船団の方へと舵を切るも、その隙を突かれて逆に「レッドフィン」の雷撃を受ける。

魚雷4本中1本が左舷一番煙突直下の第一缶室と第二缶室の境目付近に命中して第一罐室は全滅。艦は大破、航行不能になる。その破壊力は凄まじく約30tある魚雷発射管が空中に吹き飛ぶ程であった

しばらくは命中部位を中心としてくの字型に浮いていたが、荒れた海も手伝ってねじ切れてしまい艦体が真っ二つに断裂してしまう。艦後部は応急処置に成功して沈没を免れたが後部缶室に浸水したため、残り1基のボイラーも停止して航行不能となる。「雪風」は船団に残る唯一の護衛艦のため救援に来る事も出来ず、「天津風」は漂流する事になった。

やがて前部側の沈没が避けられない事が判ると生存者は後部側への移動に取りかかるが、前部と後部は潮と風に流されて急速に距離が離れていっており、一隻だけ残ったカッターで脱出した30名程は無事に後部へ移ることが出来たものの、水泳が上手く泳いで移動しようとした組は大半が流されて辿り着くことは叶わなかった。

最終的に「天津風」の艦橋や前部主砲を含む第二煙突より前の部分は失われ、「古川文次」第十六駆逐隊司令以下86名が戦死。「田中正雄」艦長はかろうじて移動に成功した。

「天津風」は直ちに救援緊急電を発信したが、艦橋もろとも海図を亡失していたため正確な遭難位置がわからず、雑誌付録の地図から無理矢理推定して救援を求めたが、案の定位置が大幅にズレており発見されなかった。

一週間ほど漂流(この時、足りない食料を補うために即席の銛で寄って来たフカを捕ったという話が残されている)したのち、食料も乗員の体力も尽き果てた頃、艦長はついに電波を発信し方位測定をしてもらうという決断を下した。

敵潜水艦に発見される可能性が高く危険な賭けであったが、その甲斐もあって1月23日になって第705海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機に発見され、航空隊の誘導により若竹型駆逐艦朝顔」、「第十九号駆潜艇」が到着。

「朝顔」の曳航によりサンジャックを経由して1月30日サイゴンに入港する。

第十六駆逐隊は「天津風」の大破により行動可能な艦が「雪風」のみとなったため解隊。「天津風」は第一南遣艦隊附属、「雪風」は第十七駆逐隊へと配置換えとなる。

応急修理

その後、サイゴンに入港した「天津風」は残存する第三缶室とその缶、および機械室に再使用の見込みがあったため、戦況の悪化で本土まで曳航する余裕が無い事もあって現地で航行可能状態まで応急修理の上で本土へ自力回航する事が決定。フランス海軍(ベトナムのフランス海軍は、当時はヴィシー政府に属しており、日本とは中立関係にあった)の小型ドックを間借りし応急修理に取り掛かる。

この応急修理は9月末には完了する予定だったが、予想以上に損傷は大きく、また部品やドックの工作能力、人員の不足に悩まされサイゴンでの機関の再整備や防水処理等が終わったのは11月。

続けて15日にシンガポールのセレター軍港へと曳航され、仮設の艦首や艦橋を設置して応急修理が完了したのは翌1945年2月であった。

後部のみしかなかったところに仮の艦首をくっつけたため全長が45mも縮んでしまい、駆逐艦としても驚きの小ささになってしまった。(メインイラストは、この応急修理後の姿である)

この時の「天津風」の状態は速力が強度の制約から最高20ノット、武装は後部主砲2基が戦闘能力を取戻し主砲が6門中4門、魚雷発射管が8門中4門が残存し爆雷投射機は健在と一応の戦闘力を保っているようではあるが、艦首側と共に射撃方位盤や電探、ソナーといった艦の頭脳であり目や耳となる装備の大半を失っていたため戦闘艦としては半身不随という他なかった。

しかも「天津風」の応急修理の間に戦線は崩壊しサイパン、フィリピンは陥落、沖縄戦が開始される状況で、資源地帯であるシンガポールから日本本土の航路は完全に閉ざされ、死地に飛び込むも同然な状況であった。

現地指揮官である「福留繁」中将は「天津風」が本当に帰国できるかを懸念し残ることを勧めたが、新艦長となった「森田友幸」大尉は、舞鶴海軍工廠で艦首側と缶の再建造に入ったという情報や貴重な機関を搭載していることも考慮して本土での修理を決断する。

最期

応急修理完了後はリハビリのため一ヶ月間訓練を行って勘を取り戻し、1945年3月19日、「天津風」は帰国のためシンガポールから本国へ向かうヒ88J輸送船団に加入する。

ヒ88J船団は南方に残る艦船をかき集めた最後の資源輸送船団であり、中途での加入を含め最終的に輸送船4護衛艦10(タンカー4、海防艦7、駆潜艇2、天津風)が日本本土を目指したが、機雷や潜水艦と爆撃機による執拗な攻撃により輸送船は全滅し、護衛の海防艦も3隻が撃沈され1隻が損傷により航行不能となって落伍する。

独特な形状で目立つためか天津風も何度も襲撃を受ける。独特の艦首構造から生まれる高波によって偶然にも速度欺瞞に成功し、敵の攻撃から辛くも逃げまわっていた天津風だったが、レーダー照準で夜間雷撃を仕掛けてきた飛行艇を1機撃墜して一矢を報いるも機銃掃射により戦死者1名を出し、命からがら香港へと逃げ込んだ。

4月2日香港で新たに輸送船2隻を加えて生き残りの海防艦3隻と駆潜艇2隻と共にホモ03船団の護衛艦として再編成されるが、空襲により出発前から海防艦1隻が失われてしまう。

この際損傷した択捉型海防艦の「満珠」から25mm単装機銃2基、13mm単装機銃1基を受け継いだ。(満珠は現地で大破着底から浮揚後、現地で修理中に終戦。)

4月4日に香港を出発するが、翌日には爆撃機の襲撃によりまたもや輸送船が全滅。

僚艦の駆潜艇と輸送船の生存者を救助を行うものの残存する海防艦2隻が前進を続けたため、合流するべく救助を駆潜艇に任せて北上。(この駆潜艇2隻は救助後香港へ退避。)

各個撃破を避けるため先行する2隻に合流を求めるが距離は縮まらず、また天津風の無線機も波浪で一時的に使用不能になったためやや分散しての航海となる。

4月6日。台湾海峡にたどり着くが米軍爆撃機隊に再び捕捉される。先行する海防艦2隻を沈めると、最後の獲物である天津風を仕留めるべく爆撃を開始。

18機のB-25が六波にわたって反跳爆撃を仕掛け、天津風は譲り受けた機銃も使い3機を撃墜、2機を損傷させるが天津風も三発の500ポンド(約230kg)爆弾が直撃し大破、航行不能となる。

このままではとどめを刺されかねないところであったが、陸から数機の零戦が駆けつけたため米軍爆撃機隊はこれ以上の攻撃を断念、辛くも難を逃れる。

被弾時には煙幕を展開しつつ甲板に火を着け、今にも艦が沈みそうな状態に見せかけるというどこかの映画のような方法で体勢を立て直す時間を稼いだ。

沈没こそ免れたものの被害は甚大で、主砲は全滅し燃料タンクの重油も炎上、注水弁や海水ポンプも破壊されたため消火や排水も捗らず、主砲の弾火薬庫にも火が回り一時は弾薬が誘爆し出して危険な状態であったが、にわかに海が荒れ出し破孔から海水が入り込んだため火勢が衰え、爆沈を免れる。

機関自体は大きな被害は免れたものの、機械室への浸水のため破損した潤滑油のタンクに海水が流入しており、海水を分離せずにこのまま再始動すると機関が焼き付いてしまう恐れがあったが、零戦が去った空では米軍機が再び天津風に接触を始めており、これ以上修理に時間をかけては漂流中の無防備なところに再度攻撃を受ける危険が大きいため、熟考の末に森田艦長は運転強行を決断する。

同日夜。なんとか人力操舵で近くのアモイ湾まで航行したが、入港予定のない港であり機雷原の位置が判らず、無線も破壊されていてあらかじめ港側へ先導を求めることもできなかったため、やむを得ず湾外で機関を止めて一旦停止し、発光信号でアモイの監視塔に機雷原の位置を問いかける。

20分以上待たされた末の返答は「貴艦ハ既ニ機雷堰ヲ通過シ在リ」。返答を待っている間に潮流で流され、気付かない内に機雷原の只中を通過していたのである

しかし、さすがの天津風の強運・悪運もここまでだった。艦を停止させた時間が致命的となり機関がとうとう焼きついてしまう。

かくしてそれまでしぶとく回り続けた天津風のスクリューはついに停止し、ワイヤーに吊るした代用の錨も天津風を繋ぎ止めることができずそのまま潮に流され、浅瀬に擱座する。

その後も曳航・修理が試みられるがアモイの警備艇では離岸させるには馬力不足で、天津風自身もようやく火災こそ鎮火したものの浸水が収まらず、ついに機械室が満水となってしまう。

「天津風」が脱出するべく悪戦苦闘しているところを、「天津風」を戦闘能力を失った難破船と侮ってか現地の海賊が襲撃を仕掛けてくるが、天津風は25mm機銃の水平射撃を浴びせて健在を誇示し見事に撃退した。

最後の望みを賭けて再度曳航を試みるが失敗。もはや自力での艦の復旧は不可能と判断され森田艦長は止む無く艦の放棄を決断、ついに総員退艦を下令する。

「天津風」は海賊から再度の襲撃を受けつつも三日間かけて武装と物資を陸上へと引き揚げた後、軍艦旗降下。

本来ならその各々が駆逐艦一隻を轟沈させるに十分足るであろう三度の大損害を乗り越えた不沈艦は1945年4月10日夕刻、艦内の主要部八ヶ所に仕掛けた爆雷に点火し自沈する。生存者は161名、戦死者39名(便乗者3名含む)であったとされる。

この直前坊の岬沖海戦で浜風と磯風が戦没していたため、残る陽炎型は雪風一隻となった。

If) 実現しなかった本修理

ちなみに本土での本修理については、呉海軍工廠造船部による修理計画では、喪失した第一・第二缶室のボイラーや主砲一番砲は新造し原状復帰するものの、船体は(おそらくは生産性を考慮して)曲面の多い原型から角ばったナックル方式へと再設計し、艦橋も一等輸送艦や松型駆逐艦のものをベースにした新設計の物で再建造、と他の陽炎型とは異なる独特な形状となり、装備についても防弾板の設置、機銃の増備、三式水中探信儀や二二号電探・一三号電探の装備、爆雷兵装の強化等により対空・対潜において抜本的な強化を図る、というものだった。

詳細な図面が発見されていないため、あくまでも想像の域を出ないが、同じく艦首を喪失して、角張った厳つい新造品に付け替えた海防艦・占守のような姿になったのかもしれない。元からの高温・高圧缶の装備、加えて対空・対潜装備の強化(アメリカ海軍式に言えば"DDE"?)と、さらに際立った個性的な艦に変貌したかと、想像が膨らむところだ。

但し森田艦長の話では最終的な工事の担当は呉ではなく舞鶴であり、舞鶴ではまた別の修理計画で設計されていたのかもしれない。

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