栗田ターン
くりたたーん
元ネタは史実におけるレイテ沖海戦(サマール沖海戦時)での「栗田艦隊の謎の反転」から。
この艦隊を率いていた栗田健男提督とはどのような人物であったかというと……
軽巡阿武隈の艦長や、戦艦金剛の艦長も務めたことのある海軍生活のほとんどを海上勤務で過ごしたベテランの水雷屋であった海軍中将殿である。
開戦時は第七戦隊司令官として戦い、バタビア沖海戦やセイロン沖海戦に参戦。
その後第三戦隊司令官となり、ヘンダーソン基地砲撃や南太平洋海戦に参加した。
1943年には第二艦隊司令長官兼第四戦隊司令官になり、レイテ沖海戦に挑んだ。
海軍大学校甲種卒というエリートコースではなく、兵学校出身者なら誰でも入れる乙種卒の士官は、まず艦隊司令長官になることはないのだが、乙種卒の栗田が司令長官になったことは異例中の異例であり、予備役編入と思っていた栗田提督自身も「こんな野武士にやらせちゃ駄目だろ」と驚くほどであった。
尚、戦後の栗田に対する悪評に関しては、一部の海軍出身者から甲種でない栗田に対して甲種卒であるエリート達による責任の押し付けであると言われている。
また栗田自身は上記のように第二艦隊司令長官に抜擢されたことを驚いているが、海軍での彼の経歴を見る限り、開戦までは乙種卒ながら同期でも甲種卒と同程度の速さで進級しており、開戦時は第七戦隊司令官で少将だが、同僚の各戦隊司令官の中で数少ない乙種卒であり、その最先任であった。開戦後もバタビヤ沖海戦やミッドウエイ海戦等での行動を戦後批判されているが、一方で進級は順当に進んでおり、将官といえども戦意不足であると断じられたり(アッツ島沖海戦での第五艦隊司令長官・細萱戊子郎中将やルンガ沖夜戦での第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将)決断に問題あり(第三次ソロモン海戦での戦艦比叡艦長・西田正雄大佐)とされたら、たとえそれが「将来有望の人材」と周囲から評されていた人物でも予備役送りや左遷などをしている海軍としては異例であり、実際は問題視されていない事が判る。
実際のところ、戦時中の栗田の行動を批難しているのは先述した甲種卒出身者が多いようで、公平なものではないようである。
なお、レイテ沖海戦では栗田と対比するように高評価の西村祥治中将(第二戦隊司令官。スリガオ海峡海戦で戦死)だが、実は彼も乙種卒で栗田と同じ所謂ノンキャリア。しかも将官になってからの経歴は1期上の先輩である栗田の後を追いかけるかのようであり、非常に興味深い。
西村の開戦時の役職は第四水雷戦隊司令官だが前任は栗田であり、その栗田が第七戦隊司令官から第三戦隊司令官に移動したときの後任は西村である。
この謎の反転の理由については、戦時中の情報の錯綜と戦後栗田が多くを語らないままだった(語ったとしても見苦しい言い訳にしかならず、聞く者などいなかったであろうことは疑いないとの意見もある。また一切の弁明をせずに批判を甘んじて受け入れた姿勢を、弁明に明け暮れた他の司令官などと違い立派とする意見もある)と言われている。しかし実際のところ栗田はGHQによる戦後の調査での聞き取りや、一部識者からの質問には詳細な回答をしており、「多くを語らなかった」というのは間違いである。栗田自身は一部マスメディアに対して不信を持っており、そういった人々の質問を受け付けなかったのだが、それを彼らが逆に「沈黙した」と歪曲して広めたのが世間に流布したのが原因ともいえる。
反転の評価については、卑怯極まりなくかつ無責任きわまり、大勢の兵士を無駄死にさせたとの意見も、敵輸送船団を撃滅しても上陸後かなりの日数が経過しており効果は疑問で、それ以前に敵機動部隊艦載機と敵艦隊との戦闘で第二艦隊の全滅は免れないともいえる状況から大勢の将兵を無駄死にさせずに救ったとの意見などもあり、結論を見ない。但し批判論の中には当時の状況を正確に把握せずに感情的になって批判するものも多い。
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実際には栗田艦隊だけでなく、参加したほとんどの海軍部隊や指揮を執る大本営、連合艦隊には小沢艦隊が囮作戦に成功したと報じる電文は届いておらず、当日は誰も知らなかった。「ヤキ1カ」電という発信者不明の電文も、それ自体は発見されていないが、「栗田艦隊の北方に空母を含む米機動部隊がいる」という同じ内容の電文は基地航空隊や軍令部などにも当時届いており、発見情報自体は存在していた事は判明している(但し発見位置がそれぞれ微妙に異なる内容になっている)
また作戦打ち合わせで栗田艦隊は連合艦隊より「周囲に敵艦隊が居たらまずそれを撃破してよい」(周囲に敵艦隊が居たら妨害行動をされて突入が困難になる可能性が高いから)という承認を得ており、これら諸々の情報から栗田が反転する(これも退却ではなく北方の敵機動部隊に突入するという危険な判断である)というのは卑怯だとか無責任だとか言うのは無理がある。
当時の栗田提督のこの海戦での評価といえば現在と異なり非常に高かった。何と言ってもサマール沖で、敵機動部隊の一群を自艦隊だけの攻撃で壊滅させた(実際は誤認だったのだが、戦後になるまで日本側は誰もそれを知らなかった)のだから当然であり、他の部隊は神風特別攻撃隊以外、何の成果を上げられなかった(小沢艦隊も囮の目的『栗田艦隊の突入を妨害する米機動部隊の脅威を取り払う』自体には失敗し、栗田艦隊の中核の「大和」「武蔵」のうちの「武蔵」が失われているので厳密には成果をあげたとは言えない)のと対比され、レイテ湾に突入しなかった事は問題視されないほどであった。
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因みに海戦後の栗田が海軍兵学校長に移動した事を「左遷」とする関係者もいるが、海軍の士官を養成する兵学校の長は非常に重要なポジションであり、どこの海軍でも士官学校を「左遷先」とする国は存在しない。なおこの人事を左遷だと言った海軍関係者は案の定甲種卒のキャリア組である。
また勘違いされている場合が多いのだが捷号作戦での海軍の目標を「上陸地点に突入して上陸部隊を殲滅する」ことだけだと間違って認識し、それを放棄して機動部隊攻撃を目指した栗田の決断を命令違反だと考えている人々が多いのも彼の評価を落としている理由でもある。
実際の捷号作戦での要領を見ても分かるが、海軍の作戦目標は上記の攻略部隊殲滅ともう一つ「来襲する米機動部隊の壊滅」であり、立案時はこちらの方が唯一の作戦目的ですらあった。陸軍の反対を受けて攻略部隊攻撃も加えたのだが、機動部隊攻撃に関しては中核の基地航空隊に対して
「航空隊のうち精鋭最強部隊は温存して敵機動部隊攻撃に使うべし」
と指示するほど重要視しており、研究者の中には海軍は空母攻撃の方を重視していたとみる人もいる。
役割分担上、基地航空部隊が空母機動部隊、栗田艦隊ら水上艦隊が上陸した攻略部隊と分けてはいたが、海軍としては空母攻撃を無視してでも上陸部隊を攻撃するのを優先していた訳ではなく、双方の攻撃を重視していたのである。
「突入が海軍の最優先目標だ」という考えは実際は水上部隊側だけの目標だったのをそう思い込んだだけだった。全体として見れば基地航空隊が目的を果たせず米機動部隊への攻撃が不調だった(主に台湾沖航空戦で基地航空隊の戦力が半減していたのが理由)事と、突入予定(敵上陸から2日以内)が計画よりも大幅に遅れ(敵上陸から5日目となってしまっていた)到着しても米軍が上陸地点周辺にいるか不明な状況(実際日本側は海軍だけでなく陸軍でも上陸地点の状況を掌握出来ておらず、陸軍中枢も現地部隊(第16師団)との音信が不通となっていた)だったことを考えると、反転してまだ戦果を挙げれる可能性のある敵機動部隊攻撃に向かった方が全体の戦局に貢献できると考えるのは妥当な判断ともいえる。
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普通考えてみればわかるが、本土と南方を繋ぐフィリピンを防衛すると考えたとして、囮作戦や突入作戦をして水上艦艇のほとんどを失うのを覚悟してまで上陸部隊「だけ」を攻撃しても、ハルゼー機動部隊が健在な以上、制海権は米軍に奪われフィリピンは孤立化し、本土と南方資源地帯は分断されてしまう。水上艦艇をすり潰しても構わないのは「ハルゼー機動部隊も壊滅する」という前提条件があってこそであり、もし仮に栗田艦隊が反転せずにレイテ湾に突入し、上陸部隊を殲滅して代償に自隊が消滅したら、恐らく無傷のハルゼー機動部隊が制海権を手中に収めてフィリピンの日本軍を空襲で叩き潰し、待機する第二陣で再度上陸してあっさり占領していた可能性もある。
またこの捷号作戦を「米軍に大打撃を与え、これにより有利な講和を結ぶ」という思惑があったとする話もあるが、それなら尚更米機動部隊を残したまま上陸部隊と連合艦隊が相打ちで無くなる様な作戦である訳がなく、米機動部隊も含めた米軍勢力と連合艦隊が相打ちにならないと「米軍に大打撃を与え」たとは言えない。上記のように補給路を封鎖して日本を日干しにする間に米軍が第二陣を用意して再度攻略戦をすればお終いである。
時のイギリス首相であったチャーチルは、「栗田と同じ状況におかれた者でないと彼の批判なんて出来ないよ(意訳)」と言っている。
栗田艦隊が反転した理由については上記されているのも含め
・突入しても既に上陸から5日が経過しており、既に上陸部隊は射程外に、物資も揚陸し終えて輸送船に無く、揚陸地点も判別できないのでどれだけ戦果を挙げられるか不明。
・25日もサマール沖海戦後より数度の空襲を受けており、実際この時点でも空襲を受けている最中だった。小沢艦隊からの情報もない事から、敵の誘致に失敗している可能性が高い。
・基地航空部隊の戦果も上記の理由から効果をあげていないと考えられる。これだと仮に突入して上陸部隊を壊滅(その結果栗田艦隊も壊滅する)させてもハルゼー機動部隊は健在であり、フィリピンの防衛は実質失敗する。
・それよりもサマール沖海戦のように敵機動部隊を攻撃して少しでも戦果を挙げた方が戦局に貢献できる。
・作戦開始前に、敵主力を発見したらそちらを優先してもよいと言われていた(敵艦隊を残したままま輸送船団を攻撃に向かっても、当然敵は阻止行動を取り、最悪挟撃される危険がある。輸送船団を攻撃するときにまずそういった脅威を排除するのは常識であり、実際承認を与えた神重徳連合艦隊参謀は第八艦隊参謀時代に第一次ソロモン海戦という似た作戦をした際に、まず輸送船団を護衛する敵巡洋艦部隊を攻撃するのを優先している)。
・上陸地点周辺には西村艦隊を壊滅させた有力な敵水上部隊が待ち構えている可能性も高かった。
などが反転した要因として挙げられている。