概要
経歴
卒業後は病院に薬剤師として勤務したが、左翼活動に専念するため退職。
その後は京浜安保共闘のメンバーとして頭角を現し、1970年には所属2年目にして最高指導者に昇格。
翌1971年に連合赤軍が結成されると、森恒夫に次ぐナンバー2のポジションに収まる。
この間に様々なテロ事件に関わり、同志殺害(内ゲバ)も経験した。
日本中を恐怖に陥れた、日本最悪の女死刑囚としても恐れられていた。
同年から1972年にかけて起こした山岳ベース事件では、森と共謀して「総括」の名のもとに同志12人を殺害。
直後に森と共に警察に逮捕され、刑事裁判では死刑判決を受けた。
しかし、刑の執行を待たずして脳腫瘍により2011年に65歳で死去。
余談
ヒステリックかつ自己中な性格から男性にモテず、美人を敵視していたとされる。
山岳ベース事件では美人や妊娠していたメンバーを率先して総括に託け殺害した。
一応自身にも内縁の夫(あさま山荘事件の主犯・坂口弘)は居たが、利害関係しか無い夫婦のためか関係は冷めていたと思われる。
この事からカリスマ性があり美貌でも有名だった重信房子と対照的に語られる事が多い。