重信房子
しげのぶふさこ
1945年9月28日生、東京都出身。後述の経緯から、現在の戸籍上の名前は奥平房子。
右翼活動家だったことがある父の影響を受け、社会活動に関心を持つ。
高校卒業後働きながら明治大学文学部史学地理学科に通い、学生運動に深く関与するようになっていきやがて活動を通じて知り合ったメンバーたちの影響もあり過激派寄りの活動にシフト。
共産主義者同盟(第二次ブント)を経由して共産主義者同盟赤軍派に加入。
その美貌でも知られた。
海外逃亡
1971年にメンバーの奥平剛士と偽装結婚して出国、パレスチナに拠点を作ろうと試み、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に参加して軍事訓練を行なったりしていた。
1974年に組織名を日本赤軍に固定し最高指導者となった。
この間にパレスチナ人活動家の男性と事実婚し、1973年にレバノンでのちにジャーナリストとなった娘の重信メイを出産した。
この夫とは間も無く死別した模様。
その後ハーグ事件など多数のテロ行為を日本赤軍は起こし、彼女もハーグ事件への関与で国際手配される。
1974年ごろには北朝鮮に入ってよど号ハイジャック事件の犯人と接触したことが、よど号グループメンバーの元妻の著書で明らかになっている。
また、イスラエル当局の追及を逃れるためメイを連れて偽名を使い中東諸国を転々としていたという。
テロリストでありながら、娘に対しては子煩悩な母親であったらしく中東でも娘のために食材を探して和菓子を作って食べさせていたという。
こうした「自分達が起こしたテロの被害者には寄り添わないが実娘には優しい」と言った性格はメイが成人してジャーナリストとなった後も母を擁護するような論陣を張る傾向につながっており物議を醸している。
逮捕、そして出所
やがて中東における日本赤軍の立場も悪くなり、彼女は偽造旅券を使用して密かに帰国。
大阪にいる支援者にかくまわれていたが、公安により彼女の帰国が突き止められていた。
すでに高齢となっていたがタバコを吸う時の癖などは変わっておらず、これが特定の決め手となり2000年に高槻市内で逮捕された。
「ハーグ事件」への関与で、逮捕監禁罪・殺人未遂罪で起訴され、2010年に懲役20年が確定。
その後ガンに罹患していることが判明、医療刑務所で服役し4回の手術を受けた。
2022年5月28日に満期出所。高齢(この時点で満76歳)で病身なこともあり「暴力ではなく権利の中でやれることをやると思う」という意向を出所直前に娘のメイ経由で発表している。
当面は支援者やメイの支援の元療養生活をする模様。
出所直後の記者会見で「政治・軍事的に直接関係のない人たちに被害やご迷惑をおかけしたことを改めて謝罪します」と謝罪はしたものの、「私が自分が『テロリスト』と考えたことはありません」と手記で発表したことについては「反省していないのでは」という批判も多い。
また支援者たちが「WE❤️FUSAKO」という横断幕を掲げて彼女を迎えたことについても、「直接手を下したわけではないとはいえ殺人に関与したテロリストを持ち上げるのはどうか」という観点からも批判が殺到し、当時のギラッド・コーヘン駐日イスラエル大使も不快感をあらわにするコメントを発表している。参照
出所後の秋にも左派形労組主催の集会に出席して講演し、今後も市民運動に関与する意見を表明。
「人権侵害の酷さを日々体験しながら22年を過ごしてきました。空気を吸うことくらいしか自由がない」と言う発言などで、「多数の外国の一般人の命を奪うことに関与し、税金で自分の病気を治療してもらいながらあまりにも反省の色がない」として批判が殺到している。
さらに同年12月28日の毎日新聞で彼女のインタビューが掲載され、この内容もまた反省がないとして炎上し記事を執筆した平林由梨記者ともども「テロリストの言い分を垂れ流した」として非難を浴びた。
上記のコーヘン駐日大使も再び怒りのコメントを出している。(参照)
少女コマンドーIZUMIの画像が彼女と間違えられて海外のネットで出回り、日本人アカウントが訂正して回る騒動が何回か起こっている。
彼女が活動を開始したのは大学生の時なのでセーラー服を着ているわけはないのだが。