概要
溝口派一刀流は小野派宗家の祖、小野次郎右衛門忠明の弟・子とされる伊藤典膳忠也に学んだ溝口新五左衛門正則の弟子である和田与兵衛重郷らが興した(溝口自身は溝口派を起こしておらず、溝口の弟子も『忠也派』を名乗る者と『溝口派』を名乗る者がいたという)。
この流れが会津藩に伝わった由来は、江戸時代半ばに伊藤正盛という溝口派の使い手が会津を訪れ、枝松公忠という藩士に伝えたことに始まる。
だが、伊藤は皆伝を伝える前に会津を去ってしまったため、枝松から伝承された池上丈左衛門安通が同流の皆伝を得るよう藩命を受け江戸に赴き、達人との評判の高い水島玄益に学んだ。だが、水島の流儀は溝口派の真伝ではなかったことから、池上は独自の工夫を加え完成させた流儀を流祖と尊び『溝口派一刀流』と称したが、本家の溝口派とはかなり違っていたという。
現在、溝口派はこの会津系だけが残り、本流は絶えたとされる。会津藩でも一部の上流武士だけに伝えられ、稽古も厳しく秘され、技の要点も口伝だった。そのため戊辰戦争で数多の藩士が討ち死にしたり、戦後の斗波藩への移封、日清、日露戦争や二つの大戦を経る内に伝承者が激減してしまう。
現在では奥義の一つである『左右転化出身の秘太刀』のみが伝承されているが、国家老の一人である萱野権兵衛長修が「これだけは伝えておきたい」と親戚の井深宅右衛門へ箸を以て伝授したのがこの『左右転化出身の秘太刀』だったという。
この『左右転化出身の秘太刀』は井深宅右衛門から和田又四郎茂弘、その子の和田晋に受け継がれたが、和田氏は他に誰も伝承者がいないこの型が完全に失伝してしまう事を憂い、昭和43年9月に福島で開催された東西対抗剣道大会で、和田氏と好川忠七段の二人により公開した。
現在では現流派代表である長沼悟詮氏の下、剣道の高段者を中心に伝承されている。
YouTube内の会津若松市 公式WEBサイトでも動画が公開されている。
引用文献:学研 日本の剣術2
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