概要
澁敦とは「文豪ストレイドッグス」に登場する澁澤龍彦(文豪ストレイドッグス)x中島敦(文豪ストレイドッグス)のBLカップリングの内容がある作品につけられるタグである。
このタグを使用する際は文スト【腐】タグを併用することが望ましい。
また、劇場版作品「文豪ストレイドッグス DEAD APPLE」のネタバレを多数含むため、その旨をキャプションなどに注意書きするのをお勧めする。
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※以下劇場版ネタバレ注意
劇場版作品「文豪ストレイドッグス DEAD APPLE」において、本編より6年前、敦が12歳の頃、澁澤龍彦と中島敦は既に出会っていた。
露西亜の魔人フョードルの口から「全ての異能力者の欲望を導く唯一の異能」の持ち主であると聞かされた澁澤は、敦の異能を奪うため孤児院に「研究者」として訪れる。
異能力「ドラコニア・ルーム」の霧によってすら取り出せない敦の異能を手に入れるため、澁澤は敦を電気椅子に拘束し、無理矢理取り出す策に出る。
しかし、敦の「生きたい」という生存本能が敦の異能を覚醒させ、その結果敦は「月下獣」を用いて澁澤の顔面を爪で引き裂き、殺害する。(奇しくも本編中にて殺人を徹底的に忌避していた敦が、既に澁澤を、生きるためとはいえ殺害してしまうという事実が発覚することになる。余談ではあるが原作16巻の時点に置いて「敦が殺害した人物」は澁澤一人である。)
その後、澁澤の死体から異能力が分離。澁澤の行っていた「異能力者を殺害し異能の結晶を蒐集する」という事業を、ドストエフスキー曰く「蒐集品」の澁澤の異能が引き継ぐという事態が巻き起こる。彼は世界中を股にかけ数多の異能力者の異能を奪いつつコレクションしていくことになるが、自身が死んだ記憶を忘却し、その間の空白の自身の記憶、及び通常のそれとは異なり白く輝く結晶体を求め、遂に魔都ヨコハマに潜入。何重にも絡まった策謀の果てに遂に太宰の異能を手に入れるところまでたどり着くが、失敗。ドストエフスキーの手により死の記憶を呼び起こされ、敦に殺害された記憶を取り戻し、自身の求めるものが異能ではなく、自分を殺害し生命力を証明した敦の魂、その輝きを――「生命の輝き」をこそ求めていたのだ、と。
そして崩壊した骸砦跡にて芥川と鏡花と相対。圧倒的な力量でもって二人を追い詰めていくが、異能を取り戻した敦との連携にて打倒され、その体を形成していた頭蓋骨ごとこの世から消滅することとなった。
その際、敦との戦闘中に発した「勘違いするな、(私を殺したことを)責めてなどいない」や「いいぞ敦君!」「最早退屈とは無縁だな!」「その青さも美しい」など最早公式が最大手とすら思える強烈な台詞の数々。そして敦の手によって消滅する寸前に発した「君が、私を救済する天使か ——……」は数多の劇場版視聴者に澁敦の波動を感じさせることとなった。
上記の通り澁澤が死亡し最早動きの無くなったカップリングではあるが、「もし澁澤が孤児院から敦を引き取ったら」「もし澁澤が蘇生し敦に再び出会ったら」など様々なifシチュエーションによる二次創作が行われており、未だ先の読めないカップリングでもある。
四月莫迦企画
アニメ文豪ストレイドッグス公式ツイッターでの2019年エイプリルフール企画において、事件が起きた。
以下、公式文まま。
僕たちの出会い、それは生命の輝き――。
いつかの文豪青春グラフィティ。
――春。
桜舞い散る学園で、一人の自殺志願者の命を救った事から『武装生徒会』の一員となった中島敦。
個性派揃いの武装生徒会にもほんの少し慣れてきた頃、突如現れた白ラン二人組が太宰を『林檎自殺倶楽部』へスカウトに現れて―――!?
其れを阻止しようとする敦と謎の学生、澁澤龍彦との戦いが静かに幕を開く……のか?
「君とは……何処かで逢った事があったかな?」
「――はい!?」
傷つきやすい心と心。
繊細な想いが交錯する、かけがえのない日常。
文豪の名前を持つ少年たちの日々を等身大に描いた文豪青春グラフィティ。
少年たちの織り成す或る春の物語。
――いつか見た青春の日々が、今年もまた紡がれる。
「嗚呼……そうだね。
とても、とても佳い気分だ……
長年探していたものを見つけたからだ。
中島敦君。
私は彼を知っている。
何処かの輪廻ですれ違っていたに違いないのだ。
嗚呼、嗚呼。今の私はもはや退屈とは無縁だ。
世界が輝いて見える。
宝石の輝きなど、生命の輝きの前では霞んでしまう。
――明日は彼に会いに行ってみようと思う。」
……公式が病気である。
詳細はアニメ公式ツイッターおよびアニメ第3シーズン公式サイトで確認できる。
余談
史実における澁澤龍彦の著作には中島敦の名前がいくつか登場する。その中でも澁澤の代表的著作として度々名前の上げられる『思考の紋章学』に収録された「円環の渇き」にはこのような文章が存在する。
「むろん、私といえども、プロティノスからニーチェにいたる西欧の円環志向の哲学者の系譜のなかに、わが中島敦を強引に割りこませようなどという、馬鹿げたことを考えているわけではない。」(『澁澤龍彦全集14』p393より引用)
態々「われらの中島敦」ではなく「わが中島敦」としているところに澁敦を見出すのは筆者の考えすぎであろうか。それとも……このほかにも「円環の渇き」には中島敦の著作の分析を澁澤が行っているため、興味を持った方は文庫本や単行本、懐に余裕のある方は全集を手に入れることをお勧めする。