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畠山義総

はたけやまよしふさ

畠山義総とは能登畠山氏第7代目当主で畠山慶致の子。叔父の義元の後を継ぎ能登畠山家の全盛期を築いた名将。(1491年-1545年)
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叔父の後継編集

1491年、能登畠山家第5代目当主・畠山慶致の嫡男として誕生。誕生してから6年後、祖父の畠山義統が死去。家督は義総の叔父である義元が家督を継いだ。


ところが、義元本人は父・義統に力量は及ばずで1500年に家臣・遊佐統秀らが反逆を起こして追放されてしまう事が起こった。義元の追放後は父・慶致が6代目当主となって畠山家を統率しようとした。


だが、まもなくして1506年。北陸で一向一揆が発生。しばらくして義元と協力関係にあった足利義稙が将軍に復帰。その為に家臣団は義元を当主に復帰させる声が上がった。この声に父・慶致は兄の義元に家督を返上する代わりに息子・義総を次代当主として推薦させた。


全盛期の到来編集

義総は義元に従って一向一揆を鎮圧し、更に共同統治を行なって畠山家の権力強化による守護大名から戦国大名へと昇格させた。1515年、義元が没すると義総は約束通りに家督を継いだ。しかし父・慶致がまだ存命中だった事もあり、親子による共同統治を行った。


1520年には河内畠山家当主・畠山尚順の要請を承諾し、長尾為景と結んで神保慶宗と一揆軍を討伐。更には領国の主導権を握る越後長尾、越中遊佐・神保らの守護代層と提携し、両越能三国同盟を成立。加賀一向一揆を指導する本泉寺蓮悟らとも強調して、北陸の政治情勢の安定化を図った。


1525年、父の慶致が死去すると以後は政策を強化し、積極的な国作りを行ない、居城を七尾の城山に移して五大山城と称される名城・七尾城を築城。この七尾城は後の1576年に上杉謙信が攻めてきたものの、結果約1年間も持ちこたえた名城として知られている。


1538年には兄弟の畠山九郎や畠山駿河が羽咋本念寺・阿岸本誓寺らと結んで反旗を翻すが、義総はその翌年に本願寺と和睦し内乱の拡大を阻止した。


更に義総本人は優れた文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は、小京都とまで呼ばれるほどに発展。義総の治世(1515年-1545年)の間は畠山家の全盛期と言われている。


全盛期の終焉編集

晩年には畠山稙長の要請により、次男・義続を継がせる案があったが結局1545年に稙長が死亡した為に挫折となった。義続を継がせる事は両畠山家の統一を図ろうと画策した為である。


結局、両畠山統一に失敗した義総は同1545年に54歳で死去する。家督は義続が継ぐが、重臣達の主導権争いが始まり、能登畠山家は没落の道を辿る事となった。


信長の野望における畠山義総編集

覇王伝PKより初登場。畠山家の全盛期を築いた事もあってか、ステータスは高い目に設定されている。


ちなみにニコニコ動画この作品では本プレイ動画の初期大名(プレイヤーが使う大名)として登場。


その47までは大名として活動しているが、その47終盤にて・・・。

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