白洲次郎
しらすじろう
1902-1985 昭和時代の実業家。昭和60年11月28日死去。83歳。
ケンブリッジ大学を卒業し、戦前日本食料工業などの役員をつとめた。
戦後は「ワンマン宰相」と呼ばれた首相吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。
吉田政権崩壊後は、政界入りの声が上がったもののそれを無視、実業家として東北電力、大沢商会の会長をつとめるなど多くの企業役員を歴任した。
財界に野心を持たなかった為、一次資料はあまり残っていないものの様々な名言やエピソードが残されている。
中でも有名なのが、昭和20年12月のクリスマスにおけるエピソード。
昭和天皇からダグラス・マッカーサー宛のクリスマスプレゼントを届けた際、「その辺に置いておけ」とぞんざいに扱おうとしたマッカーサーに「天皇陛下よりの贈り物をその辺に置けとは、何事か!!」と激怒したというものであり、終戦直後で日本全体がアメリカに対して戦々恐々としていた時代にあってはかなり尖った行動と言えるだろう。
ちなみに白洲自身は天皇制反対の立場だったが、それとはまた別に「筋の通らない事は許せない」という苛烈さもあったのだろう。
また「我々は戦争に負けたが奴隷になったわけではない」と毅然とした態度を貫き、「従順ならざる唯一の日本人」と一目置かれたとされている。
ただその一方で、貿易のための外貨の獲得・確保を理由に、進駐軍から返還してもらった兵庫県姫路市の製鉄所をイギリスの企業に身売りしようとしたが、永野重雄なる人物から「将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか!!」と罵倒されたうえ、吉田茂との会食中に永野の息がかかっていた宮島清次郎なる人物に殴り込まれた上、「大臣でも何でもないお前が何でここにいるんだ!?」と因縁付けられた果てにその場から引き摺り出されると言う屈辱を味わい、挙げ句の果てには酒場で永野と殴り合うまでにエスカレートしてしまう。結局件の製鉄所は永野が親方を務める富士製鐵の手に渡ってしまった。
また、「日本には航空会社を運営出来るほどの国力はない。アメリカに任せれば良い」と考え、パンアメリカン航空(など)と組んで日本内国航空を設立したが、松尾静麿をはじめとする、「日本の空は日本人に任せなければならない」と訴えた人たちの前に敗れてしまった。
若かりし頃から洒落者でならした男であり、戦前には欧州で浮き名を流し晩年も70過ぎてなおポルシェを乗り回していたとか。