概要
本名は茅原廉太郎。
山形自由新聞や長野新聞の主筆を務めた後、1904年に黒岩涙香の『万朝報』入社。主に「言論」欄を担当。涙香の協力者として、密接な関係にあった。
1905年9月から『万朝報』の海外通信員として米欧に滞在、1910年に帰朝。朝報社は1914年8月に退社した。
1912年に万朝報から「民本主義の解釈」という論説を発表し、民本主義提唱の第一人者となった。
『万朝報』時代に屈指の人気記者として名声を振るったこともあり、大正初期には演説会の弁士として時局の問題を論じた。
1915年には第12回衆議院議員総選挙に東京市から立候補するが落選。