速吸(給油艦)
はやすい
諸事情で潜水母艦を経て瑞鳳型軽空母となった剣埼型給油艦。これを代替すべく建造されたのが風早型給油艦で、速吸はその2番艦にあたる。
本来、純粋な給油艦として竣工する予定だったが、対潜哨戒用の水上機運用の要求がされたため設計変更が加えられ、さらにミッドウェー海戦での主力空母4隻を失ったことを機に、当時開発中であった流星をカタパルトで発進させる補助空母としての側面も持つ艦となった。改風早型1番艦と呼ばれるのはこのためだが、書類上では風早型2番艦のままだった。
ただし全通飛行甲板がないため艦上機を着艦させる事は不可能であり、実際には水偵しか搭載しなかった。
(艦上機を搭載した場合は、任務完了後は陸上基地へ着陸するか不時着水するしかない。これは伊勢型戦艦と同じ問題である。ただし、(少々非情な目論見ではあるが)戦闘で搭載機を消耗して「空き」ができた他の空母に着艦させるという手もなくはなく、当時の日本海軍もこのような運用を考えていたとも言われている)
竣工は1944年4月24日。2ヶ月を経たずしてマリアナ沖海戦(あ号作戦)に給油要員(第一補給部隊指揮艦)として参加。速吸の”本分”を発揮できる唯一の機会であったが、結局、補助空母としての能力は生かされないままに終わった。
あ号作戦の失敗、撤退に転じてからは、低速もあって主力艦隊から取り残され、第一補給部隊もろとも米軍機の空襲に晒される。速吸は直撃1発、至近弾2発を被弾しつつも、辛くも逃げ切ったが、他の特設給油艦2隻が犠牲となった(余談だが、資源と船腹の枯渇が深刻化していたこの時期になっても、まだ補給艦艇を守ろうとしない日本海軍の姿勢には、疑問も感じられる)
修理を完了した2ヶ月後、ヒ71船団に加わってシンガポールに向かう。船団の護衛と共に、復路では貴重な石油を積んで日本に戻る予定だった。
しかし、旗艦の大鷹の沈没と悪天候によって、ヒ71船団は瓦解。散り散りになったところを各個撃破され、速吸も米潜水艦ブルーフィッシュの雷撃を受け沈没。竣工から僅か4ヶ月後の最期であった。
なお、沈没中の様子をブルーフィッシュから撮られた1枚の写真が、現存する速吸を収めた唯一の写真となっている(速吸に限らず、当時の日本海軍の写真撮影は極度に制限されており、戦後に処分された物も含めて、国内では写真・記録が残っていない艦艇も珍しくない)
ちなみに、風早型はさらに3番艦・韓埼(からさき)、4番艦・稲取(いなとり)の建造が計画されていたが、いずれも中止になっている。
また、発展型として計画された鷹野型給油艦では搭載機を倍の14機とする計画だったが、戦況の悪化で建造は取り止めとなっている。
速吸という艦名は、瀬戸内海の西口にある「速吸瀬戸」からとられたものだが、実はこの速吸瀬戸、現在の日本地図では豊後水道もしくは、豊予海峡として記されており、一般に前者の名で通っている。
海上自衛隊においては、その豊後水道に由来する掃海母艦として「うらが」型2番艦「ぶんご」があり、2017年4月1日現在、現役にある。字面だけだと、速吸とは艦種はおろか艦名すら異なるが、実質的に艦名を受け継いだと解釈することもできなくもない。
ちなみに海自では、補給艦には湖の名前がつけられている。