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概要編集

酒巻靭負(さかまき ゆきえ)

家紋は「丸の内に二引き両紋」


忍城の北部、利根川のそばに酒巻という地名がある。

地名の由来は、利根川に福川が合流し川の流れが速く逆巻いて流れているようだからとの説がある。

(当時の利根川の流れは今とは異なっている)

酒巻姓はその地名からとったものとも言われる。

埼玉県史によれば酒巻家は元々土着の有力者で、

成田親泰(氏長の祖父)の代に成田家に従ったとされる。

酒巻姓を名乗る前は金田姓であったとも伝えられる。


酒巻靭負は文献によって名前の表記に違いがある。

「成田分限帳」では酒巻靭負助。

「行田市譚」では酒巻靭負之助詮稠(あきちか)・酒巻靭負・酒巻靭負之助・酒巻靭負允と

一つの文献の中でいくつもの表記が見られる。

だが、同一人物であるのは確かなようだ。

酒巻家に伝わる家系図にも諱(いみな)は伝わっていないという。

また氏長の父親である長泰の代から酒巻靭負の名が資料に出てくることから、

忍城戦の頃は少なくとも若年ではないか、

又は靭負は官職名である為、親子で同じ名前であった可能性もある。


成田氏の家臣を記録した分限帳(龍淵寺本)には、永楽500貫文酒巻靱負亮(ゆぎえのすけ)長安、

同50貫文酒巻三河、同30貫文酒巻源次右衛門の記述がある。


人物編集

忍城の戦いでは下忍口を手島采女以下600人余で守った。

(籠城に決する前の状況は柴崎和泉守の項を参照)

下忍口で奮戦した酒巻右衛門次郎は弟と考えられる。

また軍学者であり、遊軍の大将となり精鋭を率いていたとされる。

遊軍の役割は、普段は兵たちの怠惰を戒めてまわっているが

合戦のときは鐘の合図で危うくなった持ち場に応援に駆け付けることであった。


天正18年(1590年)7月5日、本城である小田原城が開城。

11日後の7月16日に忍城も開城したとされる(開城の日付は諸説ある)。


忍城の開城後には深谷城(埼玉県深谷市)へ行き、

忍城戦についての報告をしていたらしい資料が残されている。


忍城開城後は会津へ向かった城主・氏長には従わなかった。

松平家家臣、富田甲斐守が知行した埼玉県羽生市上手子林に土着。

その家臣となり代官を務めたとされる。

羽生市史には酒巻家に関する記述がある。

羽生市上手子林には今も子孫が暮らしているという。


関連項目編集

関東勢 のぼうの城

正木丹波守利英 柴崎和泉守 甲斐姫 成田長親



参考文献編集

行田市史 上巻2

行田市史 資料編 (古代・中世)

行田市譚

埼玉県史

埼玉叢書

羽生市史

成田分限帳

成田記

関八州古戦録「忍城戦記」

『のぼうの城』にみるリーダー論 (角川書店)

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