足利尊氏のライバルとして扱われる事が多いが、「役者不足」扱いされるのも恒例である。
生い立ち
鎌倉幕府の御家人である新田家に生まれる。新田家は清和源氏の一族で、源姓足利家と近縁であるが、初代の新田義重が、源頼朝が挙兵した際に、甥の足利義兼・子の山名義範・孫の里見義成が真っ先に頼朝の味方になって厚遇されたのに、本人はなかなか頼朝の味方にならなかったため冷遇されてしまい、その後も当主の失策や一族の分裂が相次ぎ、義貞が生まれた当時の新田家は、足利家と比べ物にならない弱小な家にすぎなかった。
略歴
そんなわけで日の目を見ない義貞は、生まれた年すらはっきりしていない。古文書でも、名前を「貞義」と間違われたり、一族同士の訴訟でスルーされて幕府に調停を求められたり、割とわびしいエピソードが残っている。
関東の英雄
義貞が歴史の表舞台に登場するのは、後醍醐天皇側に立って反乱を起こした楠木正成の鎮圧に動員された時である。義貞は「病気」という事で勝手に領地に帰っているが、太平記によればこの頃に後醍醐天皇からの討幕綸旨を受け取っている(『太平記』第七巻4)。しかし、幕府への反逆の直接の契機となったのは、強硬に軍資金目的の徴税を迫る幕府の役人を幽閉・殺害した事による。一族をまとめて決起した義貞は、上野国の守護所を壊滅させてから周辺の武士達と合流して鎌倉へ向かう。足利高氏(尊氏)の嫡子の千寿王(義詮)が参加すると、足利家を頼みにする武士たちも参加する。さらに、北条家やその御内人による支配に嫌気が差していた武士達が関東や信越各国から参入して軍勢は加速的に勢いを増していき、小手指原の戦いで桜田貞国率いる幕府軍を破る。しかし撤収した幕府軍には鎌倉から北条泰家率いる10万騎が合流し、分倍河原の戦いで一時は義貞も撤退に追い込まれた。義貞は退却の虚報を流して幕府軍を油断させ、奇襲によって苦戦の果てに泰家の軍勢を敗走させた。
義貞は三方の切通しから鎌倉に攻め込むが、周囲を山に囲まれた天険の要害たる鎌倉を抜くのは容易ではない。足利方に通じた疑いを受けて得宗の命で謹慎していた執権・赤橋守時を洲崎で討ち取るも、極楽寺坂の切通しを担当した武将の大舘宗氏が討死してしまう。義貞は自ら極楽寺坂方面の援護に回った。坂の防衛ラインも海上も北条の軍勢で満ちていたが、義貞は山が崖となって海に沈む稲村ヶ崎に目を付けたという。義貞が黄金の太刀を海に投じて祈ると龍神が応えて潮が引き、海中に道が開いた(『太平記』)。この伝説の史実については諸説あるが、いずれにせよ岬を回りこんだ新田勢が背後から極楽寺坂の防ぎ手を襲うと北条方は動揺し、他の切通しも次々に抜かれる。こうして鎌倉を陥落させられた得宗北条高時らは自刃し、鎌倉幕府は滅んだ。
新政期の苦難
だが、正慶2年・元弘3年(1333年)、幕府が滅亡して建武政権が成立すると、鎌倉の武士たちは元から有力者で高い官位と官職を持つ尊氏(および代理人の千寿王)のもとへ集まる。また、建武政権は後醍醐天皇の親政であり、京都にいなければほとんど政権に影響力を持ちようもない。いたたまれなくなった義貞は鎌倉を放棄して上京する。この後の鎌倉と関東は成良親王を奉じた足利氏が制し、新田氏の勢力は激減した。上京した義貞と一族は大勢が任官されるが、官位と官職は足利一族より格下であった。また、尊氏と対立していた護良親王を、後醍醐天皇の命令で捕縛している。護良親王が鎌倉に幽閉されてから、新田一族は急激に昇進した。その背景には、新たな尊氏との対抗馬を作り上げようとする後醍醐天皇の意図が絡んでいたとみられている。
しかし、建武2年(1335年)、高時の次男・北条時行が3万の兵を集め蜂起した際には、関東に残っていた新田一族の多くが天皇の許しも得ずに京から出陣してきた尊氏軍に従い、そのうえに尊氏は義貞とその味方の所領を巻き上げてしまう。尊氏の弟・足利直義は破竹の勢いで攻め寄せてくる旧幕府残党軍に護良親王が糾合するのを恐れ、鎌倉陥落の混乱のどさくさに紛れて護良親王を暗殺してしまう。その件も加えて、とうとう(責められて鬱状態の)尊氏は朝敵の烙印を押され討伐を受けてしまうが、義貞はこの時も討伐軍の総大将というわけではなかった。指揮系統も混乱した討伐軍は、それでも当初は人数と官軍という立場により勝ち続けるが、結局は鬱状態から復帰した尊氏の指揮の前に敗北してしまう。義貞は京都に戻り、その後を追って攻めこんできた尊氏と、さらにその後を追ってきた朝廷側の北畠顕家と合流して、尊氏軍と京都一帯で戦いを繰り広げる。ようやく京都を確保して、尊氏を九州へ追いやった義貞だが、畿内や西日本で人脈も人気もなかった義貞には、尊氏を追撃して息の根を止める力はなかった。
北陸に散る
九州へと落ち延びた尊氏は、北条氏に擁立されていた持明院統の廃帝・光厳上皇の支持を得て、多々良浜の戦いで後醍醐天皇方の菊池武敏率いる2万の軍を破り、京都への逆襲に向かう。その間、義貞は、護良親王派だったため後醍醐天皇に冷遇されていた赤松円心と、播磨国で戦って無駄に時間を費やしていた。結局は、九州から攻め上がってきた尊氏方の圧倒的な大軍の前に湊川で殲滅され、楠木正成は戦死してしまうが、義貞軍は四散し辛うじて脱出に成功した。
京都を占領されてから義貞は、尊氏と和議を結ぶという後醍醐天皇と別行動を取り、恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に向かうが、地盤を確立できずに苦戦し続けた挙句、杣山城に籠城した長子・義顕を失い、金ヶ崎城が陥落した際にも親王達を失った。その後は更に勢力も衰え、延元3年・建武5年(1338年)閏7月、交戦中に部隊が壊滅して自害した。
義貞の没後、新田家は次男・義興、三男・義宗らが父の遺志を継いで北朝軍と戦い続けたが、相次ぐ戦死や処刑により断絶し、領地は足利家に付いていた同族の岩松家が相続した。岩松家やその家臣の横瀬家は、のちに義貞の直系子孫を称している。
評価
鎌倉幕府を打倒して、その後も困難な状況で転戦し続けた義貞だが、武将としては微妙な評価を受けている。確かに戦いは強かったが、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりと、器量に疑問符が付き戦略と政略ではとても及第点を付けられない。正成に至っては、「義貞を切り捨てて尊氏と和解しよう」と後醍醐天皇に進言したという言い伝えもあるほどで、南朝関係者を割と贔屓している『太平記』でも、武士としての生きざまはともかく、能力の方は酷評気味である。後醍醐天皇も、義貞を尊氏の対抗馬として煽り立てたはずが、尊氏を最初に追討する際にも大勢の上位者を共に派遣しているし、和議を結ぶ際にも義貞には秘密で進めていたし、義貞は体よく使われていたようにしか見えない。
もっとも、勢力拡大に失敗が多いのは、後醍醐天皇の政治の不人気によるものも大きく、義貞だけの責任にするのは気の毒である。勢力も権威も欠けているのに、分不相応な重責を負わされた揚句に使い潰された、悲劇とも言えない悲惨な現実がそこにはあった。
その後、朝敵とされていた義貞は言及するのもはばかられるような時勢が続き、おまけに正成のような人気もなかったため、室町時代を通じて日蔭者扱いされていた。しかし地元の上野国(今の群馬県)では、郷土の英雄として偲ばれていたらしい。
しかし、先祖が新田一族の南朝の落人と称する松平家出身の徳川家康が江戸幕府を開き……それでも義貞の人気は(元からあまりないのだから)復活しなかった。
江戸時代後期から明治時代には、尊氏へのネガティブキャンペーンの一環で持ち上げられたが、やはり当時から評価が微妙だった義貞が完全に称賛されるのは微妙であり、戦後には存在すら急速に忘れ去られてしまった。
ただし群馬県では、今でも郷土の英雄として知られている。
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木曽義仲…「清和源氏の二番手」「東国で強く西国で弱い」「矢が眉間に命中」等の共通点がある。
上毛カルタ…「歴史に名高い~」。