開発の経緯
1935年3月16日にヒトラー政権が、ヴェルサイユ条約を破棄し、ドイツの再軍備を宣言して以来、軍拡が続いた。
主力戦闘機がBf109のみという状況に空軍は危機感を持ち、これを補助するラインの必要を感じた。
1938年、空軍はフォッケウルフ社に補助戦闘機開発を依頼した。「実際に採用するかどうかは不明」という緩い案件だったため、ブラーザー主任設計技師、タンク技師を中心とする12名という少数メンバーで開発を進める事になった。
開発コンセプト
『私の戦闘機は速いだけが取り柄のサラブレットではなく、体の丈夫な騎兵の馬であるべきだ!』がクルト・タンク技師のモットーであった。
ライバルとなるBf109は操縦が難しく、搭載するDB601エンジンは生産性が悪く供給に限界がある「サラブレット」である。そのため、新戦闘機は空戦で強いだけでなく、過酷な状況に耐え、操縦が簡単で修理も容易、生産し易い「騎兵の馬」を目指す事となった。
生産し易さを求め、機体は幾つかのコンポーネントに分割され、部品は複雑な形状になるのを避けた。当時はフォッケウルフ社の規模も小さく、生産では多くの企業に協力を仰ぐ必要があり、それらが全て同品質の部品を作れる必要があるという事情もあった。
この事は後に、連合国軍の空襲下で工場の稼働を継続させる一助となった。
開発
新戦闘機は、空冷星形エンジン「BMW 139」を使って開発される事となった。タンク技師にとって不本意な選択だったが、後に「敢えて空冷エンジンを選んだ」と述べている。当時、補助戦闘機にまわせるエンジンは他に無かった。
空気抵抗を減らすためカウリングを絞り込み冷却不良を起こすなど、試行錯誤が続いたが、試作段階から既に主力戦闘機Bf109Eより高速であった。量産型は出力が向上したBMW 801に換装され、1941年よりFw190Aとしてドイツ空軍に配備された。
BMW 801は高度7,000m以上で急激に出力が低下するが、ドイツ軍が優勢だった当時は問題にはならなかった。Bf109より視界が広くとられ、安定した降着装置や頑丈な機体もあって、現場での評判はすこぶる良かった。
『ドーバー海峡に敵軍の高性能機あらわる!』
横転率を重視した設計により、切り替えしを多用する格闘戦で強さを発揮した。エンジンの大出力を生かした垂直面の機動も得意で、急降下からの一撃離脱では無類の強さを誇った。
初陣は1941年の「バトル・オブ・ブリテン」で、RAF(イギリス王立空軍)の戦闘機スピットファイアMk.Vを圧倒する性能をみせた。RAFのパイロット多くは「ドイツの戦闘機は格闘戦で倒す」というセオリーに従いFw190Aに後れをとった。そのため、RAFは予定を変更し、1942年からMk.Vのエンジンをマーリン60に換装したスピットファイアMk.IXを部隊配備することとなった。
軍馬、戦場を渡り歩く
1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動し、東部戦線での戦いが始まった。
Fw190はここでも活躍し、戦闘機型であるA型の他、攻撃機型のF型や長距離攻撃型のG型も生み出された。胴体下の増漕架を爆弾架に交換し、さらにF型は主翼外側に30mm機関砲やロケット弾発射器を増設し、G型ではここに増漕架を移植して航続性能を強化している。
F型やG型による地上攻撃部隊には戦闘機による護衛部隊が同伴したが、自分で敵迎撃機を撃墜してしまうので、護衛部隊の士気に悪影響を及ぼした。Ju87による地上攻撃で有名なハンス・ウルリッヒ・ルーデルも、実はJu87よりも多く乗っていたという。
「野生の猪」と「飼いならされた豚」
1942年3月からドイツ本土への連合国軍の絨毯爆撃が始まり、昼間戦闘機200機、夜間戦闘機300機による大迎撃が試みられたが、撃墜率は5%程度であった。1943年からはRAFのレーダー撹乱兵器により夜間は警戒レーダーが封殺され、撃墜率は3%以下まで落ちる。
ドイツ空軍ではこれに対抗するため、「ヴィルデ・ザウ(野生の猪)」、「ザーメ・ザウ(飼いならされた豚)」の夜間迎撃作戦を採用した。
ヴィルデ・ザウ
高射砲弾を6,500mにセットしそれ以上は射程圏から外す。戦闘機はその上空で待機し探照灯に照らされた敵機に攻撃を行う。爆撃による火災でも敵のシルエットは浮かぶのでこれも攻撃する。
ザーメ・ザウ
敵の進入経路付近に、分散配置された航空基地を使い、敵機を順次追尾して、波状攻撃を掛ける。予想進路付近を中心に空中を旋廻し、敵機の接近を待つ。
いずれも目視による夜間攻撃で、鈍重な夜間戦闘機は役に立たず、Fw190だけが戦果をあげた。
液冷化
スピットファイアとFw190の性能の差は徐々に開き、スピットファイアLF Mk.IXが登場した1943年春以降、Fw190Aはスピットファイアの行動圏内である英仏海峡上空に出て行けなくなってしまった。高々度から侵入侵攻する連合軍の重爆撃機や、護衛の戦闘機との戦いに必要な高々度性能も不足しており、エンジン換装による改修計画が出される。
性能向上のための幾つかの案(B型・C型・D型)が出された。
排気タービンを装備したB型はドイツの航空ガソリンのオクタン価が低いため(※)にうまくいかず、不採用となった。
DB603Aを搭載するC型は、このエンジンがメッサーシュミット社に優先して供給されるため、不採用となった。
Fw190A-9のエンジンを高高度対応のJumo213液冷エンジン(1750馬力)に換装するD型が採用され、最初の量産型Fw190D-9の生産が1944年8月から開始され、11月から前線に配備された。
(※)87価で大日本帝国陸軍と同じ。大日本帝国海軍が92価、アメリカ軍は120価(有鉛ガソリン)。
FW190D
空冷エンジン用の太い胴体に液冷エンジンを搭載したことから不恰好になり、「太っちょ」「デブ」呼ばわりされる結果になった。ちなみにこの「デブ」とはヘルマン・ゲーリング空軍相の肥満体形を皮肉ったものである。
軽量化のため主翼外側の20㎜機銃は撤去されている。
本格的な高々度戦闘機とは言えない性能だったが、高度7,000m以上での急激な性能低下は見られなくなった。引き替えに横転性能が低下してしまったが、パイロットには好評であった。
ただし、タンク技師が「D型は中継ぎで、本命は次のTa152」と公言してしまったため、D型を配備された部隊の士気は低下した。
連合軍の新鋭戦闘機と互角な性能を持っていたが、物量差は圧倒的で、パイロットも新兵ばかりでは戦況に影響を与えることはできず、1944年暮れの「バルジの戦い」に投入され大きく損耗してしまった。
ちなみに日本でもFw190Dというと「ああ、デブ戦のDね」と返されることがある。一応、「ドーラ」という愛称もあったのだが(形状に因んで「長鼻」とも)。
Ta152
→「Ta152」の記事へ。
余談
日本編
1943年、大日本帝国陸軍にFw190A-5が1機有償供与された。ドイツから日本への輸送手段は潜水艦を利用した。国産機との比較のための試験機としての輸入で、陸軍航空総監部で技術的分析および飛行試験を行った。
五式戦闘機の開発にエンジン排気の空力処理で一役買い、操縦性や加速性能も良好だったので好意的な評価を受けたのだが、運動性に関しては難ありとみなされ、カタログスペック通りの速度が出なかったこともあって「これではP-51には勝てない」と評されるなど最終評価はあまり高くなかったようである。
しかし日本陸軍はその後は“高速でも突っ込める機体”を開発していくようになり(相変わらず他国の艦上機並みの低翼面荷重であったが)、最終的に四式戦闘機に帰結する。
アメリカ編
アメリカ陸軍航空軍の戦闘機P-47と酷似してる。
「どこが?」と思われがちだが、機体の下面だけ(=影)を見ると、実は意外なほど「細さ」が似ているのだ。そのため、P-47は味方防空網からのフレンドリーファイア被害がバカにならなかったという。
イギリス編
イギリス空軍の使用するホーカータイフーンもまた、地上からFw190と誤認・誤射されやすかったため、後に一般的になっていくインベイジョン・ストライプが認識に用いられるようになった。
ドイツ編
こう言った敵側の事情を多分に意識したのか、D-9の第44戦闘団(Jv44。Me262の離着陸時用護衛部隊)仕様機はフレンドリーファイア対策として、機体下面を赤く染めて白いストライプを走らせた、極めて目立つツートンカラーに仕上げている。
自殺行為ともとれる配色(ド派手=的)であるが、第44戦闘団の任務に敵地侵攻は含まれないので別段問題は無かったのだ。
後世、日本のミリオタの中から第44戦闘団仕様機を「赤腹D-9」と呼ぶ者が出てきたのは言うまでもない。
その他
ストライクウィッチーズのキャラであるゲルトルート・バルクホルン、ウルスラ・ハルトマンのストライカーユニット、フラックウルフ Fw190の元ネタでもある。