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ルーホッラー・ホメイニーの編集履歴

2016-11-02 00:07:21 バージョン

ルーホッラー・ホメイニー

るーほっらーほめいにー

ルーホッラー・ホメイニー師は、イラン・イスラム革命の創始者でイランを立て直した偉人である。

データ

生涯1902年9月24日(イラン歴1281年メフル月1日)~1989年6月3日(89歳)
功績イラン・イスラム革命
出身イラン中西部歩ホメイン
家系シーア派イスラーム第7代イマーム・ムーサーセイエド
出身パサンディーデ

概要

イラン・イスラム革命を起こした創始者の1人。

言えは預言者ムハンマドの血を引くセイエド家の生まれである。

イラン・イスラム革命前は、長らく国外追放の身であったがパフラヴィー王朝イランからいなくなった後、革命直前の1979年2月1日に帰国し、600万人の歓迎者が押し寄せた。

それ以前の経緯があるから現在のイラン反米体制になっている。

現在のイランではなくてはならない存在である。


パフラヴィー王朝への批判。

ホメイニー師は、世俗化・西欧近代化を進めるパフラヴィー王朝に対して批判的だった。

当時のイランでは石油英米系に牛耳られておりイスラーム文化の存亡の危機であった。

ホメイニー師は、イスラームを危機に陥れたのはブラック国家アメリカ英国シオニスト政権イスラエル或はイスラエルハイファ本部にあるバハーイー教が国王と結託している点を批判した。

だが、1963年6月5日、イラン当局がホメイニー師を政府批判で逮捕したものの、この逮捕がイランの諸都市で騒動になり、200人以上が死亡した。

この諸都市の騒動に参加した人やホメイニー師の助命嘆願運動に参加した人たちが後のイラン・イスラム革命による新体制で要職を占めることとなる。

その中にのちのイラン6代目大統領であるマフムード・アフマディーネジャードも参加している。


イランから国外追放を喰らう。

ホメイニー師は国外追放された後、1965年10月にトルコ経由でシーア派の聖地であるイラクナジャフでようやく落ち着いた。

その頃のイランはアメリカの傀儡政権に乗っ取られており国民はそれにより苦しんだ時期であった。

1975年にホメイニー師は、イラン国民とイスラーム諸国の民にシオニスト政権イスラエルに立ち向かうことを呼び掛けた。

だが、1978年にホメイニー師はイラクから追放され、クウェートの入国さえも拒否された。

次男アフマドと相談の結果、パリ郊外のノーフルルシャトーイラン人の家宅に彼は映した。

一方、国王は1979年1月16日に事態収拾に目途が立たないことでイランから出国した。

その際にホメイニー師が、帰国すれば王政の終焉になるのは明らかだった。

そして1979年2月1日にホメイニー師一行を乗せたエールフランスのチャーター機がテヘラン空港(現在のイマームホメイニー空港)に着陸した。

こうしたイラン・イスラム革命は起こり、反米と言う新体制の中でイランは生まれ変わった。


パリ郊外在住時の生活

当時のフランス米ソ対立があった為、アメリカと距離を置いていた。

フランスパリ郊外に在住した頃のホメイニー師の生活について述べよう。

ホメイニー師のパリ在住時の一日の主な生活

夜明けの3時に起床して、日中に為しえなかった自分の原稿を読んでチェック、手紙を読み、前日に用意された外国語報道に目を通す。

その後、祈り。

朝食は7時に摂り、9時までイランのニュースを聞く。

10時まで私事。

12時までは祈りと昼食。14時~15時まで午睡を1時間。

15時にニュースと政務。

17時に夕刻の祈り。

21時に夕食。

それから外国のペルシア語放送(BBC)に耳を傾ける。

23時に就寝。

尚、サッカー競技を好み、テレビ観戦する事もあったと言われている。

それが後にイランFIFAアジアランク1位の座を得ることになったことは言うまでもない。




但し、この事件とは無関係だが一部の欧米人が風刺と言いながらムハンマドの侮辱画を描く行為やイスラム教に対して差別的な行動を取ると、恐ろしい報復が来る事を覚えておこう。


死にたくなければイスラム教を侮辱することは止めましょう。

そうでないと命の保証は有りませんよ。


関連資料

ホメイニー イラン革命の祖の本は画像こちら

参考文献『ホメイニー イラン革命の祖』

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