- 生:大永八年?
- 没:天正十年(西暦1582年)一月十六日
概要
織田信長の父、織田信秀の代から織田家に仕えた重臣で、織田弾正忠家の後継者争いや尾張統一戦では森可成と同じく一貫して信長に味方した。
織田家の主要な合戦には殆ど全てに参加し、対六角氏戦や、伊勢志摩、越前での対一向一揆戦で功績をあげた。しかし、三方原の戦いでは徳川家の後詰めに赴くも武田相手に勝ち目なしと見て、ほとんど戦わずに撤退している。
後に対本願寺戦の総大将に任じられ、信長に次ぐ領地を与えられるが成果を出さず、職務怠慢を理由にそれまでの非行を書き連ねた十九ヶ条の折檻状(佐久間折檻状)を信長から直筆で突き付けられ選択の結果、息子の佐久間信栄共々、高野山に隠棲した。その後、高野山にも残れず、一族郎党にも見放されて従者も一人にまで減り、最期は餓死同然だったという。享年55歳。
尚、信盛の死後、信栄は帰参を許されており、最後まで付き従った従者は忠義を理由に小者から士分に取り立てられている。
退却戦の殿軍の指揮に優れていたことから、織田家臣を讃える歌の中で『退き佐久間』と称されていた。ただし同じ歌に歌われている『掛かれ柴田』、『米五郎左』、『木綿藤吉』に比べると知名度はかなり低く、織田四天王にも入っていない。
創作
その後半生からか織田家を題材にした作品の中での扱いも悪く、老害だったり、ただのヘタレだったり、筆頭家老だったにも関わらず存在を完全に無視されていたりと散々である。同時期に追放された安藤守就や林秀貞らに比べ、隠棲か武功を立てるかの二択を残されたという点で他の追放された家臣よりは、幾分か評価されていた模様ではある。
しかし戦国大戦では地味に使い勝手の良いカードになっており、史実の『退き佐久間』に違わぬ、ピンチ時の退却のスペシャリストとして活躍している。面倒事が嫌いでマイペースなおっさんとして描かれているが、なぜか髪型はリーゼントである。
信長の忍びシリーズ
泥棒のような丸ヒゲの冴えない容貌のおっさん。
元は丹羽長秀共々「うつけ」と言われていた信長を警戒していたが、若くして次々と功を立てていく姿を見て改心し、蜂蜜を器一杯飲まされるという拷問のような歓迎を受けて信長傘下となる。
「退き佐久間」の一面がムチャクチャ強調されており、蜘蛛を見ただけで逃げ出す、配下の兵が一人たりとも死なないほど見事に敵を躱す、変わり身の術を手に入れる、不利と見るや言い訳を猛烈な勢いで並べ立て瞬間移動したかの如き速度で全軍撤退するなど、「イタリア人ジョーク」もびっくりのヘタレぶりを見せている。