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周瑜の編集履歴

2017-03-20 12:41:46 バージョン

周瑜

しゅうゆ

中国の後漢末期の武将。孫策と孫権に仕える。妻は小喬で、孫策とは義兄弟。三国志を描いた作品では知略と武勇に優れた人物とされると共に、「美周郎」の異名で呼ばれる程の美男子であった。

概要

175年 - 210年。後漢末期の武将。字は公瑾。

周栄の玄孫、周興の曾孫、周異の子である。周循周胤の父であり、妻は小喬。揚州廬江郡の人で、若くして立派な風采を整えていたので周郎もしくは美周朗と呼ばれていた。また音楽に精通しており、酔っぱらって居たときでもその間違いを聞き逃さなかったと言われている。


赤壁の戦い

西暦208年、中原を制覇した曹操軍80万(ただし実質30万とも)の大軍は南下を開始。呉の重臣たちは孫権に投降を進言するが、周瑜と一部の武将たちは断固決戦を主張し、呉に同盟を結びにやってきた諸葛亮とともに孫権を説得する。

戦いが始まると周瑜は、わずか3万の軍勢を率いて火攻めをもって、赤壁で曹操軍の船団を焼きつくし壊滅させた。この戦いでの逆転劇がなければ、曹操は中国を統一できていたかもしれないといわれている。


荊州争奪と最期

戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。この時、曹仁は万余人の兵を失った(「甘寧伝」)。


そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時の正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け、ついに江陵から曹仁を撤退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。


劉備は左将軍・荊州として、江陵の近隣の公安に幕府を置いていた。劉備が孫権と会談するため、呉の京城に赴いていたとき、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を篭絡させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。


周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の準備中に巴丘にて急逝。36歳であった。


周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に奴隷を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。

彼の死により遠征計画も白紙に戻された。周瑜の後は魯粛が継ぎ、以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになった。


人物

  • 知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたようだが、いずれも失敗に終わっている。
  • 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。だが宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していた。しかし周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。
  • 陳寿は「曹公(=曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。

演義、その他

小説『三国志演義』でも、孫策の挙兵にかけつけ江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え張昭と並ぶ重臣となった。

赤壁の戦いでは主戦派の重鎮として登場するが、このあたりから劉備の使者として呉に滞在していた諸葛亮に、その出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされる羽目になってしまう。

そして自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を試みるが尽く失敗し、

遂に病に倒れた際には孔明の挑発的な書状を読み「私がいながら、なぜ天は諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期に…


言っておくが実力その物は『演義』でも赤壁の大火が物語る通り抜群のものがある。魯迅なども「歪曲し過ぎだ」と批判していたように、いかんせん孔明推しが強すぎたのだ…。


京劇では、「美周郎」というあだ名の通り古来から二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。


関連作品

真・三國無双シリーズ

周瑜

CV:吉水孝宏

武器:古錠刀(5以降)

初代から参戦している最古参。史実通りの長髪の中性的な美男子であり、イケメン揃いな呉武将達の筆頭格。孫尚香と共に呉の代表格でもある。

孫策とは親友にしてサポート役であり、暴走を抑えるためのブレーキ役。

性格は常に冷静沈着だが、ライバルである諸葛亮の前では感情をむき出しにする面もある。

ポジション的には呉の軍師なのではあるが、他の軍師達がビームやら雷やらを良く出すのに対し

得物の関係で長射程よりは円周攻撃が得意。4までは剣舞を多様していたが、武器変更を受けた5以降は棍を優雅にふるうようになった。

妻の小喬が幼いせいでロリコンとネタにされている。彼自身もかなり困っているようだが、何だかんだでイチャイチャしている。

また、史実同様、音楽に長けており、笛を吹く描写も時折ある他、台詞も音楽を例えたものが多い。

シリーズでの外見・動向

『初代』格ゲー。白を貴重とした服装。肌の色は仕方ないとはいえまだ黒かった。


『1』赤色の高価な衣装をまとっている。髪型は片方の前髪だけ耳にかけている。

正史で死亡した後に起こった戦いにも参加している。というか呉のストーリーが彼中心。

ちなみに真・三國無双シリーズの記念すべき第1作にしてopで1番最初に登場していたりもする。


『2』服装は1と大して変わってない(全く?)が髪型が左右対称の中間分けになり、これ以降の彼のイメージを定着させた。

また義兄弟の孫策、妻の小喬が参戦し、全体的に交流が増えた。


『3』前作よりも白が多めの服装になったが、方向性は変わっていない。

この作品以降、孫策の問題ある行動に対して「君の悪い癖だ」ということが多くなり、よし孫策のブレーキというイメージが強くなった。


『4』服装の方向性は変わっていないがやや動きやすい感じになっている。

親友の孫策との描写が大幅に増え、より彼らの絆が感じられるようになった他、小喬との掛け合いも増えたためロリコンのイメージも定着してしまった。また、呂蒙や陸遜の良き先輩としての姿も描かれるようになった。


『5』武器が古錠刀から棍に変更され、髪型もポニーテールになった。元々白かった肌の色が更に白塗りをしているかのように白くなったり、ニーハイのブーツをはいたりと色々衝撃を与えた。

無双モードでは前作よりも更に孫策との掛け合いが増えた。明朗快活な孫策と冷静沈着な周瑜の対比が全面的に押し出されるようになったが、代わりに妻・小喬や呂蒙、陸遜との掛け合いは大幅に減少。


『6』髪は再びおろすようになったが、前髪を三つ編みで束ねてオールバックにしている。服装は西洋風で都督らしくなった。ちなみに、肌の色の異常な白さは変わっておらず女性武将と比較してもかなり白い。

ストーリーモードでは呉郡の戦いから登場。孫策が史実通り早死にするため、孫策との絡みは前作に比べ減少。その代わり、未熟な孫権を支える描写が増えた。ちなみにムービーでは病死する寸前の周瑜が自分に自信がない孫権の長所を褒め称えるシーンが存在している。


『7』久々の中間分けが復活し、多くのファンを喜ばせた。髪は過去最高に長くなっている。異常な肌の白さもなりをおさめ、4以前の美人な美周郎が復活した。服装は全体的にヒラヒラしており、彼のビジュアルに合うものとなった。ちなみにこれはスタッフ内でもなかなか好評の様だ。

魯粛が無双武将になり、都督リレーが完成したためその第1走者を務めることに。頼りがいのある先輩としての姿が描写されるようになった。また、正史よりの魯粛が参戦したことが大きいのか全体的に正史よりな描写が多くなり、余裕を感じさせる物腰となった。IFでは他の短命武将と共に存命しており、大敗北をした合肥の戦いを魯粛と共に勝利へ導くことに。小喬との掛け合いもあるがかなり困っている様子で遠回しに本音をいったりも。




一騎当千

てやぁーっ!

CV:日野聡

周瑜公瑾名義。男子学生の方で主人公孫策伯符の幼馴染。


恋姫†無双シリーズ

【超嫁大戦】周瑜【恋姫無双】

CV:かわしまりの(PC版)/ 瑞沢渓(アニメ版)

真名は「冥琳(めいりん)」。リンク先参照。


三国恋戦記

三国恋戦記 オトメの兵法 公瑾さん

CV:諏訪部順一

通称「犬都督」、公瑾も参照


SDガンダム三国伝

白金の麗将

演者は百式

周瑜ヒャクシキも参照。


反三国志

孫権というより孫策(彼の代の呉はまだ劉備の敵ではなかった)の臣下であることに加え、諸葛亮がかませ犬持ちでは体裁が悪い事からかませ犬を脱させて貰えている

諸葛亮に無駄な敵意を抱かない(だから見せ場を奪われる事もなかった)ばかりか、死ぬ間際に「劉備とケンカするな」と言い残す。これが伏線となり、呉滅亡後も周瑜の子弟は生き延びた。

ただしその所為で死因が「自身の不健康な生活」という変な所で割を食ったような事態になっているあたり、やはり反三国志であった。


関連タグ

三国志 赤壁の戦い

無双OROCHI

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