概要
『信長の忍び』の戦国武将であり、織田信長の配下でもある「明智光秀」。
pixivタグとしては「明智光秀(信長の忍び)」とする。
pixivタグ使用のお願い
現在、『信長の忍び』関連のpixivタグを使いやすくするために、
簡単に言うと「明智光秀(信長の忍び)」のタグをクリックすれば、関連投稿作品が一覧でパッと出るようにするために、「明智光秀(信長の忍び)」タグを張って回っております。
なるべく「明智光秀(信長の忍び)」タグを使用して下さることをお願い致します。
なお、実在の人物である「明智光秀」タグと併用するかどうかの判断は、利用者の皆さんにお任せします。
ご面倒をお掛けしますが、ご協力をお願い致します。
解説
声:立花慎之介
信長軍のツッコミ兼土下座担当。その土下座は苦労続きの人生において磨き上げられてきたものであり、芸術的なまでに美しく、人はその姿に鳳凰の羽ばたきを幻視する。
史実で「金柑頭」と呼ばれていたからか、かなりの丸顔で額も広い。
猫のようにパッチリとした眼である(仕官を断られた毛利元就に向け「信じてください!!この目を見てください!!」と食い下がった際には「怖い」と突っ込まれていた)が、朝倉家仕官時代には目を閉じていた。
基本的に生真面目で忍耐強い性格だが、間が悪く一言余計な所があり、またおだてられると調子に乗りやすく、それが原因となって痛い目を見ることがしばしばある。
不正や卑怯な事を好まず、謀反を起こした武将の事は毛嫌いしている(後述)。
『尾張統一記』時代
斎藤道三の配下。口下手で間が悪いのはこの頃から。
従兄妹であり信長の正室となる帰蝶に惚れており、縁談を知った際には自分との事であると信じて疑わなかったほどであり、事実を聞かされると大泣きしながら鉄砲を口に突っ込んで自害しようとした(その後は信長に猛烈な私怨を滾らせていた)。
なおこの時点で妻である煕子がいるのだが、本人曰く「それはそれ!!」らしく、煕子も「この人のそんなどうしようもないところも好き」と答えている。
斎藤義龍の謀反の際には、完全な劣勢であるにも関わらず道三の援軍として出陣したことを受け信長に一目置き、(一方的な)恋敵としての私怨が晴れる様子も見せていた。
また、光秀本人も「ここで逃げたら裏切り者の汚名を着るはめになる」と道三の元に残り戦う意思を示したが、後に結局着るはめになる男とナレーションに突っ込まれている。
『信長の忍び』時代
道三が息子・斎藤義龍に反乱された際に道三の命を受け美濃を脱出。各地を放浪したのち、織田信長の部下となる。
失恋による信長への私怨は失せていたが、斡旋依頼の手紙を書こうとして帰蝶への恋文になるなど片恋は引き摺っていた。織田家に仕えて以降も度々帰蝶にアプローチをかけては信長に折檻されている。
信長軍では珍しい「ツッコミ担当」として重宝されているが、間の悪さからボケに回ることも多々ある。
火縄銃の達人であり、撃った弾を二十五間(45.5m)先の的に全弾命中させた腕前を見込まれて朝倉義景に召し抱えられたが、鉄砲戦術を軽視していた義景からは曲芸の一環と思われていた。
この鉄砲の腕は金ヶ崎の退き口での真柄直隆との戦いで、彼に重傷を負わせ朝倉軍を撤退にまで追い込む布石となった。
後に「本能寺の変」を起こす事になるのだが、この史実に基づいて、
- 「まだ12年前」(1570年時点で)
- 「後の謀反人日本代表」
- 「お前が言うな」「光秀(あなた)はもうしゃべらない方がいい」(松永久秀に向かって「必ず謀反を起こす」と突っ込んだことや、朝倉景鏡が元主君の朝倉義景を切腹に追い込んだ件について「恩を忘れ主君を裏切りふい討ちで切腹に追いつめるなんて最低だ!!」と言い放ったことに対し)
などと、四コマの題名やナレーション部分で度々暗示のように書かれ、ネタとして突っ込まれている。
『軍師黒田官兵衛伝』時代
目の下に隈を作り、『信長の忍び』本編とはまったく別人のように、すっかりやつれ疲れ果てた姿で登場。
初登場は天正9年(1581年)12月末、「事件」が起きる約半年前であり、またこのエピソードのサブタイトルは「軍師の悩みと終わりの始まり」となっている。
この事件を起こした理由は、「あいつが背中を押したから」との事。ツッコミの弟子であった堀秀政は、真面目すぎる性格から信長と反りが合わなくなったからではないかと考えていたが、今の時点では推察の域を出ない。
変を起こした時点で他大名・武将への根回しも済んでいないなど、無謀で突発的な謀反であったことが強調されている。
前述の通り人相は変わり果て、特徴的な束ねていた髪を下ろし仏胴に洋套(マント)を羽織るなど装いにおいても様変わりしていたものの、想定外の事態続きに泣きながら慌てふためく様子は「信長の忍び」本編での彼と変わりなかった。
無二の親友と信頼していた細川藤孝(娘婿細川忠興の父親)にも「天下を取れる器ではない」と言われて(けじめのために藤孝は出家した)助太刀を拒まれ、娘・玉も「今まで何人も裏切った武将を見ては「最低だ!」「卑怯だ!」「武士の風上にも置けぬ!」と罵倒していたのに」、(天下人の器に見えないという藤孝からの評価に対し)「すごくよくわかる」と嘆いていた。
その後は山崎の戦いにおいて秀吉軍に敗れ敗走中、落ち武者狩りに遭い致命傷を負って死亡。今わの際には「生まれ変わったら僧になりたい」「来世は天のように海のように穏やかな心で生きたい」と漏らすなど、命は落としたものの俗説を意識した最期となっている。
『真田魂』時代
武田家の滅亡後、織田家に仕えることを選び 信長の元を訪れた真田昌幸に、信長に殴打され頭にタンコブを作った姿を目撃されていた。
その三ヶ月後、織田信忠が松姫を改めて妻として迎え入れようとした直前に、本能寺の変を起こし信長・信忠親子を討つ。長年恋い焦がれていた松姫と対面することが叶わなくなった信忠の怒りを買い、また昌幸には「どうせ謀反するなら武田が滅ぶ前にやれ」と叫ばれた。