概要
日本航空機製造が製造した日本の戦後初の国産旅客機である。ターボプロップエンジンを搭載し短距離路線向きに設計された中型機であった。
かの堀越二郎ら、数々の戦闘機を生み出した技師たちが設計を担当した。
1962年8月に試作機が初飛行。1965年4月に日本国内航空(のち東亜国内航空、日本エアシステムを経て現在の日本航空の前身のひとつ)の羽田-徳島-高知線で旅客輸送に就役した。
1972年に生産打ち切り。2006年9月末で日本エアコミューター(JAC)所属機の引退をもって国内での民間旅客機としての運用は終了した。
就役開始から半世紀を経た現在も、日本国内では航空自衛隊・海上自衛隊で運用されているほか、国外の航空会社や軍で使用が続けられているところがある。
当時日本において旅客機の技術蓄積がほとんどなかったため、堅牢で耐久性重視の軍用機のような設計が特徴である。同程度の大きさの旅客機に比べ機体が重くエンジンの出力不足が目立った。操舵に油圧を使わなかったため舵は異様に重く、パイロットからの評判は芳しいものではなかった。ただし軍用機的な性格の良い面として、後述のように旅客機としては異常に頑丈でありこれが耐用年数の長さにもつながっている。
国産と銘打ってはいたが、エンジンはロールスロイス、ギアはコンチネンタルなど、部品はほとんど外国製であった。
名前
YS-11の「YS」は、「輸送機設計研究協会」の頭文字をとったもの。「11」は、選定を予定していたエンジン番号「1」と、用意していた設計図の番号「第1案」から。
モックアップの披露会を行う際、キャッチコピーをこの名前に引っかけて「横浜・杉田で11日に会いましょう」とした。
本来、読み方は「ワイエスいちいち」だったのだが、このコピーのインパクトが強かったことから「ワイエスじゅういち」と読まれることも増えた。
逸話
ダカール空中衝突事故
1993年12月10日、セネガルのダカール上空でガンビア航空所属のYS-11がエア・セネガル所属のデ・ハビランドDHC-6と空中衝突を起こした。DHC-6は墜落したが、YS-11は軽度の損傷で無事着陸した。
YS-11とDHC-6では機体のサイズに差があるのは事実だが、軍用機と異なり旅客機は大型機であっても構造は脆弱であり、ボーイング727が訓練用の小型レシプロ機と衝突して墜落したこともある。
それらの事実から踏まえて、この事故はYS-11の異常さを証明する最も端的なものとなった。
異様な頑丈さ
YS-11は旅客機としては異様なレベルの頑丈さを誇るのは先述の通り。東京都調布市の航空宇宙技術研究所で26ヶ月に渡って水槽の中に胴体を沈め、内圧の増減を繰り返す胴体強度試験を行ったが、9万時間まで機体が損傷することはなく、最終的には試験装置の方が壊れてしまった。
この異様な頑丈さは軍用機の設計思想を旅客機の設計に持ち込んだためと言われがちだが、そもそも大日本帝国陸軍時代に急降下耐久試験の際にやはり頑丈すぎて計器をぶち壊した戦闘機があり、その主任設計技師土居武夫もYS-11開発に参加している。
歴史を繰り返しただけじゃねぇか。
日本航空機製造のその後
よく解散したと言われるが、法人格は現在も維持されている。
問題はYS-11の生産的な展開が終わった後から現在への処遇である。
日本航空機製造の重役には旧大日本帝国海軍の航空本部付の技術将校だった和田操がいたのだが、この人物は一式陸攻を始めとした海軍の無謀な開発要求に対し常識的な抵抗をするメーカーを抑えつけて結果そのツケを前線の兵士が被るという一連のスキームのキーマンであった。
戦後は陸軍の牟田口廉也や富永恭次とともに日本軍を弱体化したため戦犯に問われなかった元将校と言われていた。
実はYS-11に参加した航空技術者の多くは陸軍担当で、海軍機担当からはビッグネームは堀越ただ1人ぐらいと言ってもいい。海軍担当の民間メーカー航空技術者は、戦後は自動車にのめり込んだ百瀬晋六、中川良一、また新幹線に身を投じたものなどが多く、和田の下で一式陸攻を担当した本庄李郎に至ってはなんと「自分には自転車が身分相応」と言って参加を断っている(実際には本庄は戦前の日本における多発機設計の権威であった)。
そんな和田を副社長として遇したもんだからさあ大変、いざ法人を民間払下げとする際、すでにライセンスとは言えジェット機の生産も行っていた三菱重工や、自衛隊のヘリを手がけていた富士重工(旧・中島飛行機)、大型飛行艇で航空業界へ復帰していた新明和工業(旧・川西飛行機)からは見事にエンガチョされ、旧陸軍閥で最大の川崎重工が引き取ることになった。
ただし、この際YS-11の権利に際しては三菱にボッシュートされている。
現在、日本航空機製造は川崎重工業の100%子会社として存続している。