ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
編集者:安埜雲
編集内容:文章に追記。ボン岬沖海戦はサマーヴィルが指揮せず、部隊も地中海艦隊に転属中でしたので削除しました。

概要

ジェームズ・フォウンズ・サマーヴィル(1882年7月17日~1949年3月19日)

イギリス海軍の指導者。

第二次世界大戦地中海のイギリス艦隊はジブラルタルアレクサンドリアに分断され、地中海の中央、シチリア島の南にあるマルタ島のイギリス海軍拠点は困難な状況に置かれた。

サマーヴィルはジブラルタルを本拠として編成されたH部隊司令官を務め、地中海西部の連合国軍海軍兵力の空白を埋めた。

東洋艦隊司令長官への転出後は、イギリス東洋艦隊をアッドゥ環礁やインド、アフリカへ避難させ、連合国軍が攻勢に転じるとアメリカ海軍と合同で日本軍を攻撃。

大戦末期はワシントンD.C.の英海軍本部代表としてアメリカ海軍との折衝に当たった。

退役後、サマセット州知事を務めた。

来歴

1882年7月17日、サリー州イングランド)のウェイブリッジで父アーサー・フォウンズ・サマーヴィルと母エレンの間に誕生。彼の祖母はサミュエル・フッド提督の血脈に連なる者であった。

1897年1月15日、海軍兵学校に入学。同期にアンドリュー・ブラウン・カニンガム(後に海軍元帥)がいた。

1898年、海軍兵学校を卒業。装甲巡洋艦ウォースパイト士官候補生として乗り組む。

1901年12月15日、海軍中尉に昇進。

1904年3月15日、海軍大尉に昇進。装甲巡洋艦サトレッジに乗り組む。

1907年、チャタム工廠の魚雷学校で、無線技術の開発に当たる。

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。無線将校として働く。

1915年12月31日、海軍中佐に昇進。

1921年12月31日、海軍大佐に昇進。

1922年、海軍本部で信号副部長を務める。

8月、戦艦ベンボウの艦長となる。

1925年2月、海軍本部に戻り信号部長となる。

1927年、第1戦隊指揮官ジョン・ドナルド・ケリー中将の旗艦艦長を務める。

1929年、王立防衛大学の教官となる。

1931年12月、重巡洋艦ノーフォーク艦長を務める。

1932年10月14日、海軍代将に昇進。

1933年10月12日、海軍少将に昇進。

1934年5月、海軍本部の人事補佐官となる。

1936年3月、地中海の駆逐艦隊の司令官として、スペイン内戦マヨルカ島へ派遣される。

1937年9月11日、海軍中将に昇進。

1938年7月、東インド艦隊司令官となった。

1939年、結核の疑いで退役。

9月1日、第二次世界大戦が勃発。サマーヴィルは海軍本部に呼び戻され、レーダーの開発に当たった。

1940年5月27日、連合軍がダンケルク撤退を開始。撤退を支援するためバートラム・ホーム・ラムゼイ大将の下で働く。

6月10日、イタリアがイギリス、フランスに宣戦布告。

6月21日、フランスがドイツと休戦協定を結ぶ。イギリス地中海艦隊アレクサンドリアに孤立。地中海西部の海軍兵力の空白を埋めるためジブラルタルH部隊が編成され、サマーヴィルが司令官に任命された。

7月3日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの命令で、巡洋戦艦フッドを旗艦としたH部隊を率いてメルセルケビール(アルジェリア)のフランス艦隊を無力化するための交渉を行う。フランス側から明確な解答がなかったため、戦闘となりフランス戦艦ブルターニュを撃沈し、戦艦2席を損傷させる。この戦いは両国間の禍根となった(メルセルケビール海戦)。

11月27日、マルタ・エジプト向け船団を護衛中のサマーヴィルの巡洋戦艦レナウンを旗艦としてH部隊はサルデーニャ島沖でイタリア海軍と交戦したが、敵艦隊が撤退した為に小競り合いで終わった(スパルティヴェント岬沖海戦)。

1941年1月6日、マルタ島とギリシャへ向けて出発した輸送船団のマルタまでの護衛任務にH部隊を率いてあたる(MC4作戦)。

2月9日、H部隊でジェノヴァ市を砲撃(グロッグ作戦)。

5月23日、ドイツ海軍戦艦ビスマルクを捜索するため、サマーヴィル率いるH部隊も大西洋に派遣され、その折に所属の空母アーク・ロイヤルの雷撃機がビスマルクの舵を損傷させ、結果的に同艦を撃沈する要因となる殊勲を挙げる。

9月25日、戦艦ロドニーを旗艦としたH部隊を率いてマルタ向け船団の護衛にあたる(ハルバード作戦)。

1942年3月27日、東洋艦隊司令官となった。トリンコマリー基地(スリランカ)を視察した結果、日本海軍の攻撃に耐えられないと判断し、アッドゥ環礁基地の拡張を行った。また、艦隊を第一線級のA部隊と旧式艦中心のB部隊に分け、アッドゥ環礁に後退させる。

4月5日、日本海軍の南雲機動部隊コロンボ(スリランカ)を空襲。

4月6日、海軍大将に昇進。

4月9日、日本海軍の南雲機動部隊がトリンコマリー基地(スリランカ)を空襲。A部隊はボンベイ(インド)、B部隊はキリンディニケニア)に移動した。

5月5日、マダガスカル島(フランス領)のディエゴ・スアレスへの上陸作戦が行われる(アイアンクラッド作戦)。

1944年3月、ヨーロッパでの戦いに余裕が出てきたため、東洋艦隊へ艦船が増強された。アメリカ海軍第58.5任務部隊も合流。太平洋方面へのイギリス艦隊参戦の準備が整った。

3月31日、トリンコマリー基地へ帰還。

4月19日、サバンの日本軍への空襲が行われた(コックピット作戦)。

5月17日、スラバヤの日本軍への空襲が行われた(トランサム作戦)。

8月末、後任のブルース・オースティン・フレーザー大将に東洋艦隊司令官の座を渡し、海軍本部に戻った。

10月、海軍本部代表としてワシントンD.C.に赴任。アメリカ海軍との折衝に当たった。

11月8日、サマセット州副知事になる。

1945年5月8日、海軍元帥に昇進。

第二次世界大戦終結後、退役し、サマーヴィル一族ゆかりの館、ディンダーハウス(サマセット州)で暮らす。

1946年8月、サマセット州知事になる。

1949年3月19日、心筋梗塞により死亡。ディンダーの聖ミカエル及諸天使教会の墓地に埋葬された。

余談

灰汁の強い性格をしていたといわれ、灰汁の強い性格をしていたといわれ、同期で親友のカニンガム提督がバス勲章を授与されナイトに叙任され、その事を示す旗を旗艦に掲げていると、それを祝うとともに「だからといっていちいちナイト面するなよ」という内容の信号を送ったという。

もっともその為かワシントンD.C.で英海軍本部代表の折、有能ではあるが人格が悪く反英家でもあったアーネスト・キングアメリカ合衆国艦隊司令長官と良好な関係を築いたという。

飛行機よりも戦艦を当初は重視するきらいのあった同期のカニンガム提督に対して航空機の研究に熱心で、また搭乗員の気持ちを理解する為に提督でありながら部下の機に同乗した事もあるという。

関連記事

編集者:安埜雲
編集内容:文章に追記。ボン岬沖海戦はサマーヴィルが指揮せず、部隊も地中海艦隊に転属中でしたので削除しました。