概要
生没年 1882年7月17日~1949年3月19日
最終階級 海軍元帥
第二次世界大戦で地中海のイギリス艦隊は西端のジブラルタルと東端のアレクサンドリアに分断され、地中海の中央部、敵国であるイタリア・シチリア島の南にあるマルタ島のイギリス海軍拠点は困難な状況に置かれた。
サマーヴィルはジブラルタルを本拠として編成されたH部隊司令官を務め、地中海西部の連合国軍海軍兵力の空白を埋めた。
東洋艦隊司令長官への転出後は、イギリス東洋艦隊をセイロン島からアフリカへ避難させ、連合国軍が攻勢に転じるとアメリカ海軍と合同で東南アジアの日本軍を攻撃。
大戦末期はワシントンD.C.の英海軍本部代表としてアメリカ海軍との折衝に当たった。
来歴
1882年7月17日、サリー州(イングランド)のウェイブリッジで父アーサー・フォウンズ・サマーヴィルと母エレンの間に誕生。彼の祖母はサミュエル・フッド提督の血脈に連なる者であった。
1897年1月15日、海軍兵学校に入学。同期にアンドリュー・ブラウン・カニンガム(後に海軍元帥)がいた。
1898年、海軍兵学校を卒業。装甲巡洋艦ウォースパイトに士官候補生として乗り組む。
1901年12月15日、海軍中尉に昇進。
1904年3月15日、海軍大尉に昇進。装甲巡洋艦サトレッジに乗り組む。
1907年、チャタム工廠の魚雷学校で、無線技術の開発に当たる。
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。無線将校として働く。
1915年12月31日、海軍中佐に昇進。
1921年12月31日、海軍大佐に昇進。
1922年、海軍本部で信号副部長を務める。
1925年2月、海軍本部に戻り信号部長となる。
1927年、第1戦隊司令官ジョン・ドナルド・ケリー中将の旗艦艦長を務める。
1929年、王立防衛大学の教官となる。
1932年10月14日、海軍代将に昇進。
1933年10月12日、海軍少将に昇進。
1934年5月、海軍本部の人事補佐官となる。
1936年3月、地中海の駆逐艦戦隊司令官として、スペイン内戦中マヨルカ島へ派遣される。
1937年9月11日、海軍中将に昇進。
1938年7月、東インド艦隊司令官となった。
1939年、結核の疑いで退役。
9月1日、第二次世界大戦が勃発。サマーヴィルは海軍本部に呼び戻され、レーダーの開発に当たった。
1940年5月27日、連合軍がダンケルク撤退を開始。撤退を支援するためバートラム・ホーム・ラムゼイ大将の下で働く。
6月21日、フランスがドイツと休戦協定を結ぶ。イギリス地中海艦隊はアレクサンドリアに孤立。地中海西部の海軍兵力の空白を埋めるためジブラルタルにH部隊が編成され、サマーヴィルが司令官に任命された。
H部隊司令官
7月3日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの命令で、巡洋戦艦フッドを旗艦としたH部隊を率いてメルセルケビール(アルジェリア)のフランス艦隊を無力化するための交渉を行う。フランス側から明確な解答がなかったため、戦闘となりフランス戦艦ブルターニュを撃沈し、戦艦2隻を損傷させる。この戦いは両国間の禍根となった(メルセルケビール海戦)。
11月27日、マルタ・エジプト向け船団を護衛中のサマーヴィルの巡洋戦艦レナウンを旗艦としてH部隊はサルデーニャ島沖でイタリア海軍と交戦したが、敵艦隊が撤退した為に小競り合いで終わった(スパルティヴェント岬沖海戦)。
1941年1月6日、マルタ島とギリシャへ向けて出発した輸送船団のマルタまでの護衛任務にH部隊を率いてあたる(MC4作戦)。
5月23日、ドイツ海軍戦艦ビスマルクを捜索するため、サマーヴィル率いるH部隊も大西洋に派遣され、その折に所属の空母アーク・ロイヤルの雷撃機がビスマルクの舵を損傷させ、結果的に同艦を撃沈する要因となる殊勲を挙げる。
9月25日、戦艦ロドニーを旗艦としたH部隊を率いてマルタ向け船団の護衛にあたる(ハルバード作戦)。
東洋艦隊司令長官
1942年3月27日、東洋艦隊司令長官となった。トリンコマリー基地(スリランカ)を視察した結果、日本海軍の攻撃に耐えられないと判断し、アッドゥ環礁基地の拡張を行った。また、艦隊を第一線級のA部隊と旧式艦中心のB部隊に分け、アッドゥ環礁に後退させる。
4月5日、日本海軍の南雲機動部隊がコロンボ(スリランカ)を空襲。
4月6日、海軍大将に昇進。
4月9日、日本海軍の南雲機動部隊がトリンコマリー基地を空襲。A部隊はボンベイ(インド)、B部隊はキリンディニ(ケニア)に移動した。
5月5日、マダガスカル島(フランス領)のディエゴ・スアレスへの上陸作戦が行われる(アイアンクラッド作戦)。
1944年3月、ヨーロッパでの戦いに余裕が出てきたため、東洋艦隊へ艦船が増強された。アメリカ海軍第58.5任務群も合流。太平洋方面へのイギリス艦隊参戦の準備が整った。
3月31日、トリンコマリー基地へ帰還。
4月19日、蘭印・サバンの日本軍への空襲が行われた(コックピット作戦)。
5月17日、蘭印・スラバヤの日本軍への空襲が行われた(トランサム作戦)。
8月末、後任のブルース・フレーザー大将に東洋艦隊司令長官の座を渡し、海軍本部に戻った。
10月、海軍本部代表としてワシントンD.C.に赴任。アメリカ海軍との折衝に当たった。
1945年5月8日、海軍元帥に昇進。
第二次世界大戦終結後退役し、サマーヴィル一族ゆかりの館、ディンダーハウス(サマセット州)で暮らす。
1946年8月、サマセット州知事になる。
1949年3月19日、心筋梗塞により死亡。ディンダーの聖ミカエル及諸天使教会の墓地に埋葬された。
余談
●むら気と活力に溢れ、知識人ぶろうとする気は毛頭なく、猥談では右に出るものは無いなど灰汁が強く、諧謔のセンスが天衣無縫の単純極まるものである事も相まって自然と場の中心人物となる性格をしており、それは海軍将校としての指揮官を形成するのに役立つと共に、親しまれる者と同じくらいの敵を作ったと言われる。
同期のカニンガム提督と乗艦同士の信号のやりとりをした時は、大英エンパイア勲爵士の略号でもある「KBE]を掲げたカニンガムに対してバス上級勲爵士の略号でもある「KCB」を掲げた。かいつまむとそれは「おめでとう。だが乙に構えるのも大概にしろ。たかがお前如きの年の功でナイト面されるのはたくさんだ」との意であったとか。
もっともそんな性格の為かワシントンD.C.で英海軍本部代表の折、大変有能ではあるがパワハラ・セクハラなど人格面で問題があり反英家でもあったアーネスト・キングアメリカ合衆国艦隊司令長官と良好な関係を築いたという。
●人情家の面があり、出撃する空母アーク・ロイヤルの若い艦載機搭乗員達のうち何人帰ってくるのかと見送りながら考えるのは耐えがたいものがあり、状況の過酷さを理解している事を搭乗員達に示す為にも、せめてとアーク・ロイヤルの艦載機に提督の身でありながら度々同乗したという。