概要
創作作品では架空世界、現実準拠問わず「若きエリート」として人気の題材である。
また、「青年期故の葛藤」や「古参の部下と上官との軋轢」など、青年期の下級指揮官特有の悩みなど創作作品のキャラクターとしては独特な魅力がある。
本項では、作品投稿数が多い大日本帝国陸軍の青年将校の間で流行した「青年将校文化」について解説する。
青年将校文化
大正時代に入ると、陸軍の若い将校を中心に独自のアレンジを加えた軍服を仕立てて着用する者が目立つようになり、昭和期には大流行という形で独特の文化を形成するに至った。
一説では、明治時代の末期に陸軍に任官した皇族が誂えた軍服が発祥とも言われる。
一方で、海軍士官の間では派手で個性的な軍服・軍装品を誂えるという気風は薄く、さほど個性的なものは見られない。
将校と軍服
大日本帝国の陸海軍において、下士官兵は軍服や軍装品は貸与されるが、将校の場合は軍服や軍装品は自費で調達するものであった。
つまり、軍帽、軍衣(ジャケット)、軍袴(ズボン)、襦袢(シャツ)、軍刀、革帯、拳銃… などなどその他諸々の軍装を全て自腹を切って揃えなければならなかったのである。
軍服のアレンジ
戦前から戦後暫くまで、紳士服といえば洋服屋や百貨店で誂えることが多く、今日のような既製品、所謂「吊るし」の服は少なかった。
陸海軍の将校・士官の軍服も紳士服と同じくオーダーメイドで、着用者の好みに合わせた服が作られた。
つまり、将校一人ひとりがオーダーメイドの軍服を着ていたわけである。
軍服は細部に至るまで仕様が規定されているが、たとえ規定があっても「格好良く着こなしたい」「流行ってるから」と差を付けたくなるのは軍人である前に若者である以上当然の心理であろう。
或いは「(官給品の、皆同じものを着用する)下士官兵とは違う」という陸軍将校としての誇りを示す意味合いもあったと思われる。
現代でも学生が制服を着崩したり、改造したり、社会人でもちょっといいスーツや派手なネクタイ、シャツを着る……といった具合に、規定やマナーの中でも個性を見出す文化は似たものであろうか。
海軍では、陸軍と違って後述のような派手な軍服や軍装品は流行せず、「○○文化」と言ったものを形成するには至らなかったが、こちらも軍服や軍装品はオーダーメイドであるため、細部に持ち主の好みを垣間見ることができる。
流行した様式
陸軍将校の場合は好みに誂えた軍服を瀟洒に着こなすという文化が強かった。中には明らかに規定違反というものもあったが、瀟洒な軍服は陸軍に勤務していた皇族の間でも流行したため、余程酷いものでない限り(時と場合により)黙認されていたらしい。
- 軍帽
軍帽は、クラウンと呼ばれる最上部の膨らみが正面で大きく高くなる「チェッコ式」や、ロシアの軍帽のように全体的に大柄な「ロス式」、縁の型崩れを防ぐワイヤーを抜いてフニャフニャにさせた「クラッシュ式」が代表的であり、好みで「チェッコ+クラッシュ式」など組み合わせたりもしながら仕立てられた。
また目庇の角度を通常のものより急に付けることもあった。
- 軍衣
細身に見られるようタイトに仕立てられた。
また、襟は立襟(~昭5年制式)、折襟(昭和13年制式~)共に襟も高くしたものが好まれ、まさしく「ハイカラ」であった。
- 軍袴
軍袴も、足が細長くスタイルが良く見えるようにタイトに作られた。
短袴(乗馬ズボン)は、腿部の膨らみを大きくするか逆に小さくし、膝より下の部位をきつく絞って美脚効果を狙ったものがあった。
昭和五年制式まで存在した長袴(スラックス)も、細身に誂えてより脚が長く見えるよう工夫された。
他に、雨覆の裏地を派手な色にする、軍刀の拵えを工夫する… 等など、青年将校文化は、制服以外の軍装品にも波及した。
余談
古参の下士官の間でも、官給品の軍服を改造して「青年将校風」とすることが流行した。本来は官給品に手を加える事はご法度だが、証言や改造された官給品の軍服が現存することから、部隊や勤務年数によっては黙認されていたらしい。
一方で、大日本帝国陸軍の場合は髪型だけは如何ともし難く、一兵卒から将官にいたるまで丸刈りが原則であった。
例外は、海外に勤務する(或いは勤務が決まった)駐在武官のみ長髪(現在の七三分け程度)が許されたという。曰く、海外では丸刈りは「囚人の髪型」とのことで、硬派な気風の陸軍でも、流石に「誇りある帝国陸軍の駐在武官が囚人の髪型は拙い」となったのだろう。