概要
昭和13年(1938年)に制式となった大日本帝国陸軍の軍服。「九八式軍衣」は、制式となった年「皇紀2598年」から。
「九八式」の呼び方は昭和13年に制式となった軍服類を便宜的に一纏めに呼んだもので、呼び方の由来は下士官兵向けの衣類の裏面に押された「九八式」の押印からとられた。九八式という呼び名の由来が下士官兵むけの官給品のもと考える人もいるので、将校向けのものは「九八式」では無く「〇〇(物品名)昭和13年制式」などと呼ぶ人も。(本稿は煩雑なため全て九八式で統一)
様式
大まかなデザインは将校用や兵用でさほど変わらない。
先代の昭五式軍衣と変わって、襟は立襟から折襟(立折襟)となり、階級章は肩章から小柄なものを襟に付けるように改められた。
兵科章は峰が2つある山型のものを右胸に着けるよう改められた。
ジャケット(夏衣・冬衣)には、昭五式より腰に物入れが2箇所追加されて合計で4箇所の物入れがつく。
スボン(夏袴・冬袴)は従来では徒歩本分者(歩兵等)には長袴(通常のスラックス)、将校や乗馬本分者(騎兵など)には短袴(乗馬ズボン)と二種類存在していたが、九八式においては短袴に統一されている。
いわゆる夏服である「夏衣、夏袴」木綿製で、冬服の「冬衣・冬袴」は羅紗製である。
将校向け
こちらは大日本帝国の他の軍服と同様に、将校の軍服は自費でオーダーメイドのものを誂えることが一般的であった。
オーダーメイドであるため、前述の通りの大まかな様式や細々した規定を規定を満たしていることが条件ではあるものの、全体的なシルエットから細やかな部分に至るまで持ち主の好みが強く反映された。
一般的に生地は青みが強いものが好まれ、上衣は台襟の部分を高く、折襟は左右の隙間を狭くして立襟に近い形にする事が人気であった。
また、先代の昭五式の頃から若い将校を中心に派手な改造を施した軍服が流行していたが(青年将校文化)、九八式の頃には、佐官や将官といった上級幹部の間でも「一見して派手と分かる瀟洒な軍服」を着る者が現れるようになった。
その一方で、若い将校は高価な軍装品やオーダーメイドの軍服を何着も揃えねばならず、経済的には非常に苦しかったという。
特に、准士官や陸士を卒業したばかりの将校には荷が重く、陸軍将校の親睦会である『偕行社』では、彼らに向けた完成品・半完成品の軍服(いわゆる吊るしの軍服)が売られていたそうである。
下士官兵向け
一方で、下士官兵の軍服は大まかには将校向けと変わらないものの、襟は台襟が殆ど無い「平折襟」に近いもので、生地や仕立ては将校向けより劣る。
こちらは紳士服の職人が縫うテーラーメイドではなく、被服工場で生地、型紙、材質、寸法に至るまで厳密に規格化されたものが大量生産された完全な既製品である。
寸法は、1~6号まであったものの、現在の戦闘服のように細やかなサイズ設定があったり、体型にあった調節ができる構造では無く、「号数はあってるけどものすごく使いづらい」「徴兵検査は通ったけど合いそうなサイズがない」という声も聞かれたが「体の方を合わせるしかなかった」。
下士官による改造
下士官の軍服も兵用と同じもので国家から貸与された官給品であるので、修繕は良くても改造など御法度である。
ところが、古参下士官の場合は官給品であるにもかかわらず改造が黙認されていたらしく、個性的な将校の軍服に似せたものも存在する。首元のホックを、兵用の1箇所から2箇所に(勝手に)改造して襟を高く見せるなど、色々と工夫していたようである。
下士官の中でも、勤続年数が長かったり、人望が厚かったり、大きな功績を立てた者は上官からも一目置かれていた日本軍で、下士官が許された特権の一つであった。
使用された時期
制式となった時期は日中戦争の後期頃にあたり、ノモンハン事件、大東亜戦争で使用されている。
昭和期の陸軍を代表する軍服の1つではあるが、採用は二・二六事件(昭和11年)より後で、昭和20年の終戦までの7年程しか使用されていないために特に考証を厳密にする創作作品には注意を要する。
終戦までに詰襟の昭和五式軍衣をなどを完全に置き換えるには至らず、従前の衣服も継続して使用された。
下士官兵などでは、従来の襟の兵科章を取り外して九八式の階級章や兵科章変えてそのまま着用する場合もあった(船坂弘氏の写真が有名)。
一方で、将校が自費で購入し所有していたものは、改造して物入れを増設し、折襟などを取り付けて(新品の生地をつけると色がチグハグになるので、改造する上衣の前身頃などから取ることが多かった)九八式軍衣とよく似た様式に仕立て直して着用しこともあったという。
戦時中に用いられた他の物品の例に漏れず、細かい規定の改定が何度も存在した。
特に大東亜戦争末期ともなると、簡略化を経て三年式軍衣となるなど生産性は上がった一方で品質が低下した。