- 平安時代の刀工・三池典太光世により作られたとされる日本刀。この項目で記述する。
- 1の刀剣をモチーフに擬人化した、ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士。→ソハヤノツルキ(刀剣乱舞)
概要
妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリは、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した筑後国の刀匠三池典太光世作と伝わる日本刀(太刀)。
ソハヤノツルキ、ソハヤノツルキウツスナリとも。
刃長67.9cm、元幅3.9cm、先幅2.8cm、反り2.5cm。
生ぶ無銘であるものの茎の裏に「妙純傳持ソハヤノツルキ」、表には「ウツスナリ」と切付銘が刻まれている。この切付銘は室町時代のものと考される。
なお、古文書同様に濁点を省略していると考えられるため「そはやのつるぎ」とも呼ばれる。
徳川家康の命日である明治44年(1911年)4月17日に旧国宝に指定され、現在は重要文化財に指定されている。
なお坂上田村麻呂が京都鞍馬寺に奉納した黒漆剣も同日付けで旧国宝に指定されている事からソハヤノツルキの本歌の可能性があるとの俗説もみられるが、同日に指定されただけでソハヤノツルキの本歌の可能性もちょびっとあるとするのは史料に基づかない出鱈目な論理である。同日付けで熱田神宮の刀剣だけでも「短刀 銘来国俊」「太刀 銘則国」「太刀 銘宗吉作」「太刀 銘備州長船兼光」「脇差 銘長谷部国信」と5口が旧国宝に指定され、他にも「短刀 表ニ三島大明神他人不与之 裏ニ貞治三年藤原友行ノ銘アリ」や「吉備津神社南随神門」「浅草寺本堂並びに五重塔」なども指定されているように偶然にも黒漆剣が家康の命日や、ソハヤノツルキと同日付けで旧国宝に指定されただけでしかなく、黒漆剣がソハヤノツルキの本歌であるとの意図は一切ない。
切付銘の考察
意味
茎に刻まれた切付銘(銘文)をそのまま解釈すれば妙純が所持したと伝えるソハヤノツルキの写しとなる。
ただし解釈に定説はなく、史料に乏しいため意味不明とされている。
書体
刀身は平安時代末期から鎌倉時代の作風とされるが、切付銘の書体は古くても室町時代とみられる。
この事から作られた当時は切付銘が無く、後世に刻まれたと考えられる。
切付銘が後世に刻まれた可能性が高いため山姥切長義と山姥切国広のような本歌と写しではなく、和歌における本歌取りのように騒速から号(名称)を借用したのではと推測される。
妙純傳持
室町時代中期の美濃国守護代斎藤利国の入道名が妙純であることから、斎藤妙純が所有したのではないかとされる。
もし妙純が所持していたのであれば、彼を慕った者が妙純を偲んで妙純傳持の切付銘を刻んだと考えられている。
ソハヤノツルキ
ソハヤノツルキは後述のウツスナリから写し刀とされているが、本歌となるソハヤは複数の説がある。
1.の騒速は、坂上田村麻呂が日本三大妖怪として有名な鈴鹿山の大嶽丸を斬ったことで有名な大刀。
1~3のうち、現存が確認できるのは兵庫・播州清水寺が所蔵し、東京国立博物館が保管している騒速のみとなる。
刀身には反りがあるものの、ソハヤノツルキとは根本的に姿形は異なる。
2.の楚葉矢の御剣は、奈良・子嶋寺の旧重宝という楚葉矢丸とも呼ばれた名剣。
坂上田村麻呂を主祭神とする神社の総本社とされる滋賀・田村神社の什宝(重宝)として「剣 一口 長九寸五分少し缺けたり、古来之を楚葉矢濃劍と云傳ふ。作者詳ならず。」とある。
子嶋寺のある高取町一帯は、坂上氏の本貫地で田村麻呂の出生地とされる。
また京都・清水寺は開山を延鎮、本願を田村麻呂としているが、延鎮は子嶋寺の僧であった。子嶋寺と田村麻呂は深い縁があり、楚葉矢の御剣が子嶋寺に所蔵されていたとしても不思議はない。
3.のソハエの剣は、ソハエ→ソハヤの転化であるとの考察によるものである。
八剣宮の八剣は天叢雲剣、草薙剣、東夷討取の剣、十拳剣、人母鬼の剣、鬼討取の剣、楚葉矢の剣、矢尻の笹穂型の槍とされる。また、上記の子嶋寺の楚葉矢の御剣が八剣宮のソハエの剣であるともされる。
ただし天叢雲剣と草薙剣が同一の剣である事や、草薙剣は熱田神宮に祀られている事から、八剣の話自体が創作の可能性もある。
なお坂上宝剣の写しとする説や、黒漆剣の写しとする説もあるが俗説である。
騒速が知られる以前に、坂上宝剣がソハヤであると刀剣書で紹介されたことから、ソハヤ=坂上宝剣として間違って広まったものと思われる。
また、田村麻呂の大刀として京都・鞍馬寺の黒漆剣のみが有名であった事から、黒漆剣=ソハヤであるとも間違って広まった。
坂上宝剣≠黒漆剣≠騒速であることから、ソハヤノツルキが坂上宝剣や黒漆剣を写したとする説は成立しない。
ウツスナリ
ウツスナリの意味についても様々な説がある。
- 刀身は鎌倉時代のものとされるが、切付銘(銘文)の書体は室町時代以降のものとされる事から、後から名前だけ書き写したという説
- 三池光世の時代に写しという文化があったとは考えられていないため、光世がソハヤと呼ばれる刀をイメージして製作した説
1.は、ソハヤノツルキの作者は従来通り光世とされる。
この場合は室町時代以降に切付銘が入れられていることから、本歌と写しの関係ではなく、和歌の本歌取りのように名前だけを拝借したものと考えられる。
名前のみ借用しているため、ソハヤノツルキと本歌とされる刀剣の姿形が異なる事に矛盾も起きない。
2.は、光世作のソハヤノツルキと呼ばれた太刀を、斎藤妙純が和泉守兼定(之定)に写させたものではないかとしている。
この場合、久能山のソハヤノツルキの本歌となるのは熱田神宮のソハエの剣となり、ソハエの剣は光世作となる。
光世説、之定説ともに光世がソハヤノツルキ自体を製作している点は共通している。
家康の遺愛刀
伝来は不明であるが徳川家康の手に渡ると、家康は行光作の脇差と揃えでソハヤノツルキウツスナリを愛刀とした。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、徳川幕府を脅かす者がいるとすれば西国にあるとして、この太刀を自らの依り代として久能山東照宮にて切っ先を西に向け安置するよう遺言したという。