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朱熹の編集履歴

2019-08-29 20:37:15 バージョン

朱熹

しゅき

西暦1130年~同1200年 中国の学者。徽州婺源(江西省婺源県)の人。諱を熹、晦庵・仲晦などと字した。新しい儒学「朱子学」を作り上げた。

※画像は有志による女体化イメージ。オリジナルは髭生した野郎である。


それまでの字義による古典の解釈に代えて、宇宙の「理」と物質を構成する「気」によって聖人の意思を明らかにしようとする、新しい儒学を作り上げた。

いわゆる朱子学である。


概要

中国代(南宋)の人。9歳の時に『孟子』を読み、病床の父から『論語』を教わった。

紹興18年(西暦1148年)に19歳で進士に挙げられ、同安県(福建省)主簿となったが4年で退職し、研究生活を送った。政治にも関わったが、朝廷内の人事などに巻き込まれ、最後はすべての官職を剥奪される。

また偽学と誹謗されてすべての著書が発禁処分にされるなど艱難のなかに生涯を閉じた。


『朱子学』考

件の朱子学については、はっきり言って毀誉褒貶が凄まじい。


そもそもこの‘学問(?)’が何を言いたいのかというと、

どんなに強国だって蛮族なら嘘っぱちだ! 高貴な生まれがイチバンなんだ!!

どんなに祖国が腐敗していて、どんなに王様がクソッタレでも、

それでもそのクソッタレな祖国と王様に忠義を尽くすのが正義なんだーー!!

…の一言に尽きる。

なんでこんなトチ狂ったようなこと言い出したかというと、朱熹の祖国である南宋モンゴル帝国その他の異民族からの侵略で滅びかけていたから。

元ネタの儒教自体が『君主の‘徳’』が高いものが天命により王者の資格を得るという(宗教色の強い)スタンスであった事とあわせて、この部分をセンセーショナルに訴えることで遊牧民の軍事力よりも漢民族の文明力の高さにこそ正当性があると主張したかったからという説が有力である。


結局、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた後に『』国に飲み込まれたが、

ある種の劇薬である朱子学だけは生き残っていた。

特に後代の中華王朝である『』と『』、朝鮮半島の李氏朝鮮、日本の江戸幕府において実質的な国教に据えられることになった。

儒教のイデオロギー成分を先鋭化した朱子学の思想でもって王朝への忠誠を諸侯や国民に義務付けることで国家運営を盤石にしようとしたからだが、結論からいうと効用よりも副作用の方が半端なかった。

儒教のイデオロギーを先鋭化した結果、実践よりも知識の蓄積に重きが置かれ、他の教派よりも融通が効かなくなったばかりか口先三寸の事なかれ主義が横行し、これらの国では国力が停滞したばかりかその癖に‘蛮族’である外国への態度はデカいという悪循環を生む。


日本では幕末「神君家康公の決めたことだから—。」と半ば思考停止した状態で来航する欧米の船舶を追い払い続けた結果、アメリカに「野郎ブっ殺してやらァァァァーー!」とペリーを差し向けられ黒船来航事件が発生したのは有名すぎる話し。

このことがあってから急激な危機感が抱かれた日本国内では、同じ儒教でも実践を重んじる陽明学が台頭して攘夷志士を大量に排出し、最終的にこれら志士が中心となった明治新政府が江戸幕府に取って代わることになる。


改革に成功した日本はまだいい方で、中華思想小中華思想と朱子学が合体することでさらに二進も三進もいかない状況になった『』と李氏朝鮮はそうは行かず、19世紀末期~20世紀初頭にかけてさらなる国力の衰退や欧米列強からの侵略を招くことになる。


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