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籏野義文の編集履歴

2019-10-08 11:22:07 バージョン

籏野義文

はたのよしふみ

日本のアニメーションプロデューサー。東映および東映動画に所属。文字登録の都合から「旗野義文」という名義でも活動した。1995年に逝去。

概要

東映動画所属のアニメーションプロデューサー

名字に使われる「籏野」の「籏」が人名地名用の特殊漢字であるため、一部の作品では「旗野」名義(籏の「竹かんむり」が無い)でクレジットされている事がある。


略歴

1936年生まれ、東京都出身。青山学院大学卒。

1959年、東映に入社し企画部にて経験を積む。


1961年に子会社の東映動画へ企画担当として出向。まんが映画(劇場用アニメ)『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』を担当し、1962年に公開へと至らしめる。

1963年、月岡貞夫から企画案を持ち込まれて相談に乗り狼少年ケンを手掛け、以降、東映動画の送り出す「テレビまんが」(テレビアニメ)に多く関わり、その確立と発展に力を尽くした


1984年に土曜7時枠でとんがり帽子のメモルを手掛ける。この作品は同年の10月より日曜朝8:30に枠移動となり、のちのニチアサキッズタイム枠の原点作となった。(同時間枠には『メモル』の後番組である『はーいステップジュン』の中盤まで関わる)


1990年、日曜朝8:30に枠に帰参し『まじかる☆タルるートくん』を担当。この時に自身の直下として女性アシスタントプロデューサー関弘美を引き受け、彼女の直接指導者となる。以降、同時間枠において彼女を教授し鍛え、1993年の『GS美神』で関を自らの後任として推挙しメインプロデューサーとして独り立ちさせた。最終的に関は籏野が意図してプロデューサーにする事を目的として鍛え上げた最期の人材(いわば籏野門下の最後の弟子)となった。


1993年10月、関の成長を見届けた後、土曜19:30枠にて『SLAM DUNK』を担当するも、その最中に口腔癌(激務の最中にストレスを紛らわすために吸っていたタバコが原因とされる)に倒れ、1995年に帰らぬ人となった。後任のプロデューサは1974年の劇場版『マジンガーZ対暗黒大将軍』の監督を務めてより籏野と付き合いが深く『SLAM DUNK』においても初代SD(籏野逝去時のSD)であった西沢信孝がスライド出世する事で、その衣鉢を継いだ。


なお東映動画東映アニメーションとなるのは、籏野逝去後の事である。


異名

東映動画黎明期よりのプロデューサーである事から、複数の異名を持つ。

  • 東映テレビまんがの父
    • 東映動画最初のテレビまんがである『狼少年ケン』を企画原案者の月岡貞夫と共に作り上げた、小田部羊一高畑勲らに並ぶオリジンメンバー、しかも企画担当(プロデューサー)であった事から称される異名。
    • また、以下に述べる成果も含めて称される、最大の異名であり、籏野がいなければ現在の東映アニメーションは、もっと異なったものとなったかもしれないとも評される。
  • 土曜日の黄金聖闘士
    • 聖闘士星矢』を筆頭に、数多くの土曜7時枠(土曜のゴールデンタイム)を担当したプロデューサーである事から称される異名。
  • ニチアサの父
    • とんがり帽子のメモル』のプロデューサーであった事から称される異名だが、単にそれだけではなく、のちに『おジャ魔女どれみ』を作り上げた上でプリキュアシリーズの年次交代を主導した「ニチアサの母」関弘美の師である事からも称されるもの。この師弟をニチアサ絡みで評すれば「籏野はニチアサの産みの父、関はニチアサの育ての母」と言えるものである。そのため「籏野(と関)がいなければ『どれみ』も『プリキュア』も存在しなかっただろう」とも言われる事がある。

おもな担当作品

テレビアニメ

※注記の無い作品は劇場版も担当している。

映画

※上述したテレビアニメの劇場版は除く。

  • アラビアンナイト シンドバッドの冒険
  • ガリバーの宇宙旅行
  • ひょっこりひょうたん島(劇場版のみ)
  • 空飛ぶゆうれい船
  • アリババと40匹の盗賊
  • マジンガーZ対暗黒大将軍(劇場版のみ)
  • 世界名作童話 白鳥の王子

関連タグ

東映動画 関弘美

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