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概要編集

藤子・F・不二雄作の漫画「ドラえもん」のテレビアニメシリーズ第2弾。

テレビ朝日系では最初のドラえもんのテレビシリーズであり、今作でのドラえもん役の声優大山のぶ代にちなみ「大山版ドラえもん」、略して「大山ドラ」や「のぶドラ」と呼称されることが多い。

1979年に放送を開始し、2005年4月に現行の水田版ドラえもんに替わるまで放送された。放送時刻の変化なしに水田版に替わったため、日テレ版ドラえもんを第1作、本作及び次作を第2作とし、その中で本作を第1期、次作を第2期と呼ぶこともある。


既にわさドラ版の放送期間も15年を超えた。本作は時代の流れと共に、歴史の1ページになりつつある。メイン声優の大山のぶ代を知らない世代が視聴者層の主軸になっているのがその証拠である。だが、世間にドラえもんという作品のイメージを確立させたのは、紛れもなく本作と大山のぶ代の功績である。


シリーズの終了は2001年に大山がガンを患ったのをきっかけに、役からの勇退を公言しており、世代交代は大山の意向でもあったのだ(皮肉にも、この時に『老い先短いから……』と感じていた自身が予想より遥かに長命を保ち、最愛の夫に先立たれ、最晩年は苦楽をともにした仲間とも会えぬままであったとのこと)。



また、大山ドラの主題歌は長らく「ドラえもんのうた」を筆頭とした歌謡曲調や、「ぼくドラえもん」のようなキャラソンといった世界観をあまり崩さないものが多かった。

だが、末期になると番組スタッフの世代交代が進んだ結果、夏川りみ、東京プリン、ゆず、島谷ひとみ、THE ALFEEとポップス系の歌手が採用されていた。これらの要因から、2000年代に入る頃には、本作はマンネリ化による限界が既に生じつつあった事がわかる。


こうして、彼女の後任となった水田わさびの声色は(イメージ一新を図った制作側の意向もあり)、大きく変化したものとなった。あまりにイメージが変わりすぎたショックは大きく、世代交代直前の時期まで作品を支えていた古参ファンの反発は必然であった。


その一例として、一部から挙げられるものがある。現実世界でのロボット技術が一定水準に達した2000年代半ばにドラえもん・ザ・ロボットというグッズがバンダイ(現・バンダイナムコ)で開発された。これは『2010年までに高度なコミュニケーションを取れるロボットを開発する』という目標のプロジェクトとされており、発足当初の時点で世間の認知度の高かったドラえもんを外観デザインに採用することで、プロジェクトの完遂を目指したものであった。だが、プロジェクト発足から数年後に作品の世代交代が起こった(その2004年は初期段階とされるものが発売された年であった)。ドラえもんという作品の魅力が薄れたと判断されたからか、プロジェクトの音沙汰は無くなった。2009年に機能が強化された『My ドラえもん』が発売され、一定の売り上げは記録したとされるが、プロジェクト継続の価値無しと判断されたのか、公式発表のされないままにプロジェクトは解散(My ドラえもんの発売を最後の餞としたのだろうか?)されていた。

このように、声優交代前に企画されていた『長期プロジェクト』の熱が声優交代を境に冷め、計画当初の目標に程遠い結果で終わっていた事を世間の反発の結果だとする意見も根強い(もっとも、プロジェクト立ち上げの2002年時点の電子工学技術のレベルを考えれば、技術発展を前提にしても、2010年までにコミュニケーションをこなせるロボットを開発するという目標はあまりに楽天的であったのは事実だろう)。


このように、声優交代への反発は初期の10年ほどは影響を強く残し、水田わさびも精神的に強く悩んだほどであったという。この反発を制作側は他山の石としたのか、本作の後に世代交代(メイン声優が逝去、もしくは引退した場合)が起こった長寿アニメはいずれも前任者が培ったイメージを崩さずに引き継げる技量を持つ声優を後任に充てる事が慣例となった。(クレヨンしんちゃん矢島晶子小林由美子等)


年月の経過で視聴者も世代交代を起こしていったためか、その声は次第に沈静化していった。だが、作者存命中のような壮大なスケールのストーリー仕立ての劇場版を望む層などからは未だに苦言を呈されている(藤子氏がキャリアの後半期に青年向けの漫画で成功を収めていたのもあって)。

この辺りは制作陣も自覚しているようで、2010年代頃に制作スタッフの変動が起こっている他、緑の巨人伝は制作に反対であったスタッフの意見を押しのけての制作であったという。


本作は日テレ版の本放送から約6年とブランクがある上に、26年にわたる期間放送されたため、ドラえもんと言われてこの時期を連想する人も少なくはないだろう。次作が放送開始してからの初期の十年間は「本作こそドラえもん、次作は断じて認めない」という原理主義的な思考をするファンが多かった。これはF先生が存命時、大山の声を高く評価していた逸話があり世間に広く知られていたからである。



原作者との関わり編集

原作者の藤子・F・不二雄はアニメ放送時には基本的に細かい指示出しはしていなかったが、帯番組時代は作画が不安定と指摘したり、1990年までは完全なアニメオリジナルエピソードを禁止にするなど、決してノータッチではなかった(ただし、原作をベースにしてのアニメオリジナル展開にする事は1980年代後半から見られたし、それ以前でもアニメオリジナルエピソードののび太の夢の金メダルが放映されていたので、アニメスタッフの独走を抑えるための方便であったともとれる)


ドラえもんの演技に不安だった大山は当時F先生から「ドラえもんの声ってこういう声だったんですね」と言ってくれたことをとても嬉しかったと話している。

また、特番に実写で登場したことがあり、アニメの世界のドラえもん達と「アニメ版ドラえもん」というコンテンツその物が原作漫画とは別に大きくなりつつあると会話をしていた。F先生は本シリーズ内の1996年9月に逝去しており、生前に見届けたアニメ版は日テレ版と大山版のみとなる。F先生没後は追悼特番として『のび太の日本誕生』が放送された。


映画について編集

映画ドラえもんは1980年の『のび太の恐竜』から2004年の『のび太のワンニャン時空伝』まで毎年3月に上演された。F先生が存命の頃は『のび太のパラレル西遊記』を除いて直接脚本を作成し、制作総指揮も同時に担当していたが、執筆途中に亡くなった『のび太のねじ巻き都市冒険記』からは途中から藤子プロに引き継がれた。


映像ソフト化編集

当初はVHS、2000年代に入ってからはDVDでセル・レンタル共にリリースされているが、放送期間が長期かつエピソード数も膨大であるため、傑作選として一部が収録されているのみで、未収録のエピソードの方が多い。初年度である1979年の放送分のみ、DVD-BOXとして全話が収録されて発売されている。


作風の変化編集

大山版でも放送時期によって比較的絵柄に変化があり、大きく分けると1980年代前半頃までの初期に見られる絵柄(ドラえもんのひげが比較的外側)、1980年代後半から2000年代初頭頃の絵柄(よく大山版の絵柄と言われるあれ、ドラえもんのひげが内側に集約)、2002年以降のデジタル作画化後の絵柄(水田版に近いと言われる)の3系統に大別される。帯番組の頃は回によって作画が安定せず、原作者から似ていないと苦言を呈されたこともあった。


今でも声真似されがちな大山氏によるドラえもんも初期と後期と全く異なり、1980年代中頃まではやや高めに演じていたが、お馴染みの作画への移行するに伴い声が低く演じられるようになった。

ドラえもん自体も初期はトラブルメーカーな面こそなかったがあまり冷静ではなく、のび太と一緒に馬鹿にしたり、ハイテンションなリアクションをするなど子供っぽい描写が多かった。

主に表現規制の変化により、現在では考えられない程濃厚な、お色気描写が多い事も特徴。

2002年10月にセル画からデジタル作画に移行した。1990年代に放送を開始した。原作漫画の出版社が同じ「名探偵コナン」(東京ムービー)や「ポケットモンスター」(OLM)、同じくシンエイ動画の「クレヨンしんちゃん」と同時期の移行であった。出版社の意向ではなく、シンエイ動画ではスタッフがセル画に慣れており、デジタル作業への移行に反対していたという理由のため、デジタル化が遅れた。

このデジタル化により作風が大幅に変化し、キャラがオーバーリアクションを行う、スラップスティック系の演出が目立つようになった。古参ファンからはこの頃に急激に迷走したとの意見が極めて多い。


放送形態と放送時刻編集

10分帯番組+30分番組(1979年~1981年9月)編集

関東ローカルなど、一部で日曜日を除く毎日18時50分より1話ずつ放送。1981年9月26日まで放送された。番組構成上必ず新作が放送された。

帯番組時代も、日曜日は全国ネットで帯番組から複数話をまとめて放送した。この頃の放送時刻は日曜日の朝で、1979年度は日曜8時30分(現在のプリキュア放送時刻に相当)、1980年度以降、金曜夜移行までは日曜朝9時30分(現在のスーパー戦隊放送時刻)

この時期のタイトルコールは、黄緑色、あるいは黄色を背景に、ドラえもんの静止画が表示される映像を使用していた。(スペシャルを除く) 背景色に関しては、放送初期のマスターを劣化が進んでも流用していたためか、媒体によっては黄色か緑か判別しづらくなっている場合がある。


30分番組一本化(1981年10月~)編集

全国枠で放送された。1982年以降は新作と再放送のセットによる構成が原則となっていた。

30分版一本化後は次作に世代交代後の2019年10月の土曜日17時への移動まで毎週金曜日19時より放送していた。なお、1987年10月から1989年4月までは、後続のニュース番組の尺の影響で、10分繰り上げて放送。こちらの枠は現在ではテレビ局こそ違えどほぼポケモンの時間と同じである。

タイトルコールは大きく分けて3種類あり、背景色によって俗称がつけられている。


  • オレンジタイトル

1981年10月から1992年9月まで使用。ドラえもんが画面下部左右にいて、振り返って手を挙げる。

このサブタイトル以降、ドラえもんが動くようになった。

30分一本化後の新規タイトルコールでは、一番使用期間が長かった。


  • グリーンタイトル

1992年10月から2000年6月まで使用。op曲の歌唱者が山野さと子へ交代したタイミングでの変更となった。

ドラえもんがどこでもドアを使い、画面右から左へ移動する。

グリーンタイトル末期、2000年3月以降はステレオ放送が始まった。


  • ピンクタイトル

2000年6月から2005年3月の声優交代前まで使用。

ポンプでどら焼きを膨らませて、食べようとするとどら焼きが爆発する。

2002年10月にデジタル作画に移行した後も、映像をデジタル作画で書き直している。

また、デジタル作画移行後のサブタイトルは必ずテロップで書かれるようになった。ちなみに、手書きタイトルを採用していた時期でも、本放送時に諸般の事情でテロップを使用ていた場合がある。その場合、ソフト化の時に手書き文字に変更されたケースがある。(1999年放送の「ポンプ地下室で街を作ろう」など)


サブタイトルに関して編集

後の水田版同様に一度放送した原作付きエピソードを数年後もしくは十数年後にリメイクして放送するという体裁は取られているが、その際にはサブタイトルが変更されている。

パターンとしては、元のサブタイトルの文章を少し変えたものにしている(「森は生きている」→「森は呼んでいる」、「あやうし!ライオン仮面」→「あやうし!タイガー仮面」等)か、作中で活躍するひみつ道具の名前が使われている(「一生に一度は百点を」→「コンピューターペンシル」、「「真実の旗印」はすべて正しい」→「真実の旗印」等)か、その逆パターン(「友情カプセル」→「ドラえもんはスネ夫のモノ!?」、「ドロン葉」→「泣くな、ベソ!」等)か、大きく改題している(「のび太が消えちゃう!?」→「パパの夢をかなえよう!」、「たとえ胃の中水の中」→「しずかちゃん、大ピンチ!」等)の4パターンがある。

一方で水田版では同じサブタイトルを使いまわすケースが多い。


声の出演編集


※1 代役は丸山裕子

※2 代役は龍田直樹

※3 病気療養のため1992年10月に降板。1993年3月死去。

※4 途中までは旧芸名「横沢啓子」名義。

※5 1981年10月以降固定化され最終話まで担当。

前後のドラえもんテレビシリーズ編集


関連タグ編集

ドラえもん 大山のぶ代 テレビ朝日 シンエイ動画


外部リンク編集

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