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籏野義文

はたのよしふみ

日本のアニメーションプロデューサー。東映および東映動画に所属。文字登録の都合から「旗野義文」という名義でも活動した。1995年に逝去。
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概要編集

東映動画所属のアニメーションプロデューサー

名字に使われる「籏野」の「籏」が人名地名用の特殊漢字であるため、一部の作品では「旗野」名義(籏の「竹かんむり」が無い)でクレジットされている事がある。


略歴編集

1936年生まれ、東京都出身。青山学院大学卒。

1959年、東映に入社し企画部にて経験を積む。


1961年に子会社の東映動画へ企画担当として出向。まんが映画(劇場用アニメ)『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』を担当し、1962年に公開へと至らしめる。

1963年、月岡貞夫から企画案を持ち込まれて相談に乗り狼少年ケンを手掛け、以降、東映動画の送り出す「テレビまんが」(テレビアニメ)に多く関わり、その確立と発展に力を尽くした


1984年に土曜7時枠でとんがり帽子のメモルを手掛ける。この作品は同年の10月より日曜朝8:30に枠移動となり、のちのニチアサキッズタイム枠の原点となった。(同時間枠には『メモル』の後番組である『はーいステップジュン』の中盤まで関わる)


1986年、土曜7時枠に帰参し聖闘士星矢を手掛ける。当初はスポンサーとの軋轢からアニメオリジナルの珍設定も飛び出させて原作ファンの怒りを買うなど苦慮を重ねるが、やがて人気を安定させる。しかし、同作は1989年に原作に追いついてしまった事とスタッフの疲弊が顕在化した事を理由として自主的な撤退をスポンサー側に進言し、これを実現させた。また同作では初代SDの森下孝三をサブプロデューサーとして引き立てている。

以降、籏野は断続的に同枠に関わり1990年に下記の日曜朝枠と掛け持ちで『もーれつア太郎』を、翌1991年に『きんぎょ注意報!』を手掛ける。この時にアシスタントプロデューサーとして籏野の旗下に加わり『きんぎょ注意報!』後半にて籏野より枠を譲られて独立したのが、のちに『美少女戦士セーラームーン』のプロデューサーとなった東伊里弥である。


およそ、この時期の前後より籏野は次世紀・次世代の東映動画を意識するようになり、東映動画の上層部へ「今までの『動画』(テレビまんが)から、より高クオリティとなるべき『アニメーション』の制作に配慮した組織改革」を行うよう具申するとともに、これを見据えた「人材の見出し」を行うようになった、と言われる。


1990年、日曜朝8:30に枠に帰参し『まじかる☆タルるートくん』を担当。この時に自身の直下として女性アシスタントプロデューサー関弘美を引き受け、彼女の直接指導者となる。以降、同時間枠において彼女を教授し鍛え、1993年の『GS美神』で関を自らの後任として推挙しメインプロデューサーとして独り立ちさせた。最終的に関は籏野が意図してプロデューサーにする事を目的として鍛え上げて明確な形で送り出した最期の人材(いわば籏野門下の最後の弟子)となった。


1993年10月、関の成長を見届けた後、土曜19:30枠にて『SLAM DUNK』を担当するも、その最中に口腔癌(激務の最中にストレスを紛らわすために吸っていたタバコが原因とされる)に倒れ、1995年に帰らぬ人となった。後任のプロデューサは1974年の劇場版『マジンガーZ対暗黒大将軍』の監督を務めてより籏野と付き合いが深く『SLAM DUNK』においてもSDであった西沢信孝が兼任者としてスライド出世する事で、その衣鉢を継いだ。


享年58歳。定年に至らぬままに迎えてしまった、壮烈なる現役死であり、その急逝に伴う早世は、多くの関係者から惜しまれた。


なお東映動画東映アニメーションとなるのは、それを願った籏野の逝去後となる1998年の事である。


異名編集

東映動画黎明期よりのプロデューサーである事から、複数の異名を持つ。

  • 東映テレビまんがの父
    • 東映動画最初のテレビまんがである『狼少年ケン』を企画原案者の月岡貞夫と共に作り上げた、小田部羊一高畑勲、有賀健らに並ぶオリジンメンバー、しかも企画(折衝)担当(プロデューサー)であった事から称される異名。ただし、これは同作に関わったスタッフ全員を総称しての通称でもある。(話題に対してプロデューサーを排除してアニメーターのみに限定した場合には、月岡貞夫を指す言葉になる)
    • 一方で、以下に述べる成果も含めて称される場合もあり、この用法の場合は籏野個人を指す。ある意味では最大の異名であり、籏野がいなければ現在の東映アニメーションは、もっと異なったものとなったかもしれないとも評されることもある。
  • 土曜日の黄金聖闘士
    • 聖闘士星矢』を筆頭に、いくつかの土曜7時枠(土曜のゴールデンタイム)を担当したプロデューサーである事から称される異名。
  • ニチアサの父
    • とんがり帽子のメモル』のプロデューサーであった事から称される異名だが、単にそれだけではなく、のちに『おジャ魔女どれみ』を作り上げた上でプリキュアシリーズの年次交代を主導した「ニチアサの母」関弘美の師である事からも称されるもの。この師弟をニチアサ絡みで評すれば「籏野はニチアサの産みの父、関はニチアサの育ての母」と言えるものである。そのため「籏野(と関)がいなければ『どれみ』も『プリキュア』も存在しなかっただろう」とも言われる事がある。

おもな担当作品編集

テレビアニメ編集

※注記の無い作品は劇場版も担当している。

映画編集

※上述したテレビアニメの劇場版は除く。

  • アラビアンナイト シンドバッドの冒険
  • ガリバーの宇宙旅行
  • ひょっこりひょうたん島(劇場版のみ)
  • 一休さん(劇場版のみ)
  • 空飛ぶゆうれい船
  • アリババと40匹の盗賊
  • マジンガーZ対暗黒大将軍(劇場版のみ)
  • 世界名作童話 白鳥の王子
  • これがUFOだ! 空飛ぶ円盤

OVA編集

  • 戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー スクランブルシティ発動編

余談編集

黎明期の本当の裏方編集

籏野は東映動画において、その黎明を支えた、存在感の大きなプロデューサーであったが、日本のテレビアニメの黎明期を題材(東映動画をモデル)にした連続テレビ小説なつぞら』には、籏野に相当する人物は登場しない。


これは同作が演者確保や物語の関係で「複数の人物をモデルにして一人の人物に仕立てる」(あるいは「3~6人のモデルとなった実在の人物に対して、その必要な要素をバラバラにして組みなおし、1~3人のキャラクターに仕立てる」)手法を用いていたためである。


その論でいえば『なつぞら』において、籏野の立場にいた人物は猿渡竜男(演:新名基浩。メインモデルは月岡貞夫)と荒井康助(演:橋本さとし。メインモデルは三沢徹夫)にあたる。


このように、アニメーション黎明期を扱っている作品においては、当時のアニメーション関連の証言がアニメーターに限定されやすい事もあり、籏野の存在は本当の意味で裏方にされる事も多い。


ちなみに永井豪の『激マン!』においても、籏野は「羽多田プロデューサー」として登場している。


あるいは、本人もプロデューサーとして裏方に徹する事(作品の制作はアニメーターの手柄であり、プロデューサーはアニメーターが頑張っている時には、すでにその頑張りをいかに終わらせる(結実させる)事を考えているか、それすらも終わらせてもう次の別スタッフによる違う作品の制作を考えている)を常としていたらしき節もあり、のちの東映アニメーションにおいて籏野の薫陶・影響を受けたプロデューサーや監督は類似した事を語っている事も多い。


イナズマン編集

実は『イナズマン』の産みの親のひとりとして知られる。

もともと籏野は上述の通り『サイボーグ009』第1作のプロデューサーだったのだが、作者の同じ『仮面ライダー』の登場と子ども人気に「乗るしかない! このビッグウェーブに!」と感じ、アニメ屋としても東映(実写)に対抗したくなり、のちに『イナズマン』に繋がる企画『ミュータントZ』を立てて石ノ森章太郎の元へ持っていったのだという。

しかし、東映動画にとってみれば、いわば「上層部」である東映が主導の一端を握る「変身ブーム」にガチで組み付く事は(当然と言えば当然だが)東映動画上層部からは「天に唾を吐く行為」と見なされて理解を得る事ができず、結局、企画は頓挫。肝心の企画書は石ノ森の元に留め置かれる事となった。

しかし、皮肉な事に籏野が石ノ森の元に残した『ミュータントZ』の企画書は、よりにもよって同じく石ノ森の元に出入りしていた平山亨の目にとまり、平山は「この企画書の作品を作りたい」と石ノ森に打診。結果『ミュータントZ』の企画は石ノ森と平山によって『イナズマン』へとリファインされて日の目を見たのであった。



関連タグ編集

東映動画 関弘美

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