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関弘美

せきひろみ

日本のアニメーションプロデューサー、のちに企画責任者。東映アニメーション所属。一部のファン層からは「ニチアサの母」と称えられ慕われる。
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もしかして:関裕美アイドルマスターシンデレラガールズの登場人物)

概要

東映アニメーション所属のアニメーションプロデューサー福井県出身。女性

代表プロデュース作に『GS美神』『ニチアサトレンディ三部作(ママレード・ボーイご近所物語花より男子)』『おジャ魔女どれみシリーズ』『デジモン四部作』『明日のナージャ』『金色のガッシュベル!!』、企画代表作に『プリキュア三部作フレッシュプリキュア!ハートキャッチプリキュア!スイートプリキュア♪)』『デジモンクロスウォーズ』『トリコ』などがある。

元祖「東堂いづみ」の中の人のひとり。

また、東映アニメーションにおける「女性プロデューサー」の筋道を開拓したパイオニアのひとりでもある。

経歴

元々は早稲田大学稲門シナリオ研究会の出身者で脚本家を志望していた。

同研究会のOBである大和屋竺(大和屋暁の父)と鈴木清順が後輩たち(関の先輩たち)より大学祭にかこつけてシンポジウムのコメンテーターとして呼ばれた事を機に、自らのシナリオを見てもらう幸運に恵まれたものの、両者より壮絶にこっぴどいダメ出しを食らう。
しかし、大和屋竺より粗削りながらも光るセンスがある事は認められ、大学在学中に関ひろみ名義で大和屋竺が構成を務めた東映不思議コメディーシリーズの初期作である『ロボット8ちゃん』『バッテンロボ丸』へサブライターとして参加。大和屋竺ならびに土屋斗紀雄より指導を受ける。(つまり関は脚本家としては浦沢義雄の妹弟子と言える人物)

この経験を軸に映像の世界への憧れが強まり、東映および、その関係会社(東映動画など)への就職を目指したが、就職活動中に両社へのパイプが大和屋ら脚本家陣のものしか無かった関は「東映各社の重役の娘たち」や「東映取引先のお嬢様」たちによるガチガチの縁故採用に阻まれて当初は東映各社に対しては一般職はおろかアルバイトにも引っかかることなく、あえなく就職浪人に至り大卒後にはフリーライター人生を余儀なくされる。(当時は男女雇用機会均等法の制定前であり、血縁・地縁・知縁の『三縁』のみが重視された能力無視・経歴軽視のコネ採用などバリバリに当たり前だった時代)

フリーライターとして執筆経験を積み、約2年間の活動を経て頭角を現し、のち青年向けファッション誌『ホットドック・プレス』(講談社)の外部創刊メンバーとして参画する。この頃のライター月収は東映動画での給料を軽く超えていたとか。
しかし、ライターとして頭角を現しフリーとして高給を得ている事(より正確にはフリーとしてのハイリスク&リターン。さらには年次における季節単位のルーチンワークに陥っていた事)に対して関は戦慄する。ライター仕事をしている自身の現状を「自らの人生と夢に対して妥協して真摯に向き合っていない」と考え「このままでは自らの心が腐ってしまい、やがてはマトモな仕事をしないライターになってしまう」と恐怖して「やはり映像の世界に行きたい!」と一念発起。大学OBおよび大和屋一門の縁故を必死に頼り、東映アニメーション企画部のアルバイトとして同社へと入社を果たす。

アルバイトとしては視聴率調査などの雑用のほかに「ダミー企画書」(本命の企画を良いもののように見せて通すための嘘企画。東映アニメーションが「ウチにはコレだけのアイディアがありますよ!」あるいは「だいたいこんなのも出せるけど、こんなのよりも本命企画の方がいいでしょ!」とハッタリをかけるための捨て企画。デザイン・企画関係の会社ではクライアントへの企画提案の際によく使われる手法。ダミーとは言うが、実はダミーから本企画に結実する作品もあったりする)の作成も手掛けた。
この時期に「ダミー企画」のひとつとして、サーカス一座の少女を主人公とする80年代名作風(貴種流離譚)の習作企画『ナージャ!!』を作成。それが当時の上司の目に留まり、企画書の実力を認められアルバイトから横山和夫プロデューサー付きのアシスタントプロデューサー(正社員)へと推挙された。(そして、この「認めてもらった企画」をいつか作品にすることを密かに誓い、自らを支える「大きな夢」にしたという)

1987年にダミー企画として『レディレディ!!(原作:英洋子「レディ!!」)』を立てたら『キャンディ・キャンディ』の後釜を欲していたバンダイが、これに食いつく事となり、そのまま同作にアシスタントプロデューサーとして関わる事に。これが関のアシスタントプロデューサーとしてのデビュー作となる。(メインプロデューサーは横山和夫)
ただ、本来はダミー企画だった『レディレディ!!』の製作は、言ってみれば「入門したばかりの弟子が、師が通したい企画を蹴落とした」形になってしまったため、現場の居心地は相当に悪かったとか。
しかし、ここで金春智子(のちの『ナージャ』シリーズ構成)と出会うことになる。
翌年、『レディレディ!!』は制作局との提供料の兼ね合いから放送局を移る(TBS→テレ東)ことになり『ハロー!レディリン』となり1989年1月まで続いた。

なお1988年より『ハロー!レディリン』と掛け持ちで横山賢二の下につき『ひみつのアッコちゃん』(第2作)のアシスタントプロデューサーも務める。
実は関は、それまで『魔法使いサリー』(第1作)の信者級の大ファンであったため、その後を受けて放送された『ひみつのアッコちゃん』(第1作)に対しては「サリーちゃんを終わらせた作品だ」として嫌っており、アッコ第2作に加わる事に対しては複雑な感情を持っていた。そのため、上司である横山賢二(アッコ第1作の参加プロデューサーでもある)に「事ある毎にお澄ましして(優等生で)泣き虫なアッコちゃんは大嫌いだ」と、その旨を忌憚なくぶつけた。
すると横山賢二は、それを批判することなく「数字(視聴率)には反映されない、当時の女の子の貴重な感想だ」として受け止め、関に「ならば昔のアッコちゃんの嫌なところは変えてしまえばいい(今の女の子たちに身近に思えるアッコちゃんにすればいい)」とアドバイスする。そして、この横山賢二のアドバイスが2作目以降の「おてんばアッコちゃん」を生み出す事となり当時の女の子たちの支持も得て『ひみつのアッコちゃん』は関の好きな作品へと転じた。
のちの1998年には自ら『ひみつのアッコちゃん』(第3作)のメインプロデューサーとなっている。

1990年、横山らの下を離れ、当時に新しくテレビ朝日・日曜朝八時半枠を担当する事となった籏野義文の下につく事となり、そのまま籏野の担当する『まじかる☆タルるートくん』のアシスタントプロデューサーとなる。かくて関は籏野に同時間枠で鍛えられ続け、最終的に1993年に籏野の後継者として『GS美神』でメインプロデューサーに昇格。以降、長らくニチアサキッズタイムにメインプロデューサーとして関わっていくこととなる。
その後『ニチアサトレンディ三部作』『夢のクレヨン王国』と原作ものを手掛けるが、1999年、ついに関は佐藤順一五十嵐卓哉山田隆司とともに、同枠における『とんがり帽子のメモル』以来の東映オリジナルアニメーション企画(『メイプルタウン物語シリーズ』はバンダイ側による企画作品)となる『おジャ魔女どれみ』を世に送り出し、なんと玩具売り上げも上々となりシリーズ化に成功する。
また同年にはフジテレビで『デジモンアドベンチャー』を手掛け、これも四部作にまで至らしめるヒット作となった。

しかし、当時のニチアサ体制下の『どれみシリーズ』製作は相応の無理を現場に強いる結果となった。
『デジモン』側は男児向けであった事から主人公交代や世界観チェンジ、スタッフの適時入れ替えなどを行い作品のリフレッシュを図ってモチベーションを持続させる事ができたが、『どれみ』側は女児向けであった事から「主人公交代」や「要素を残しての世界観チェンジ」そのものが当時は常識外れの発想であり、スポンサーの「作品の空気こそを大事にしたい。そのためには、この世界観のこの主人公たちじゃないとダメだ」とする意向やスタッフ側の「自分たちにしか『どれみ』は作れない」という自負もあり、主人公交代や大幅なスタッフ入れ替えを行うことがままならずにリフレッシュに至れず、結果トータルデザイナーである馬越嘉彦やシリーズ構成の山田隆司、総合SDの五十嵐卓哉らに対してシリーズが続けば続くほど増大してしまう過剰かつ多大な負担を強いる事となった。
その結果として関と五十嵐と山田は「疲弊したスタッフたちと『どれみ』を守るために」どれみシリーズの2002年度作(『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』)における強行終了を現場決定する。そして終了を渋る東映アニメーションおよびバンダイとのすったもんだの挙句に「もう好きなものを作っていい」との下知をもぎ取り、2003年に「初めて自分を周囲に認めさせてくれた作品」として、長年にわたり「いつかは作りたい」と願いつつも机の中に保管していた企画『明日のナージャ』を、時代性も何もかも錯誤状態であることを覚悟の上で作り上げる。(このあたりの事情は作品の項目を参照)その結果として関は長らく務めてきたニチアサのプロデューサーを降りる事となった。(後任は鷲尾天

ニチアサ降板後は『ひみつのアッコちゃん』(第3作)から『デジモン四部作』へと至る流れからドリーム9のプロデューサーとして同時間枠のアニメに2007年まで関わり続けた。なお、その間にも『ラブ★コン』『出ましたっ!パワパフガールズZ』などの単発作品に参加している。さらに2007年には『はたらキッズマイハム組』でニチアサキッズタイム早朝枠(6:30枠)を受け持つ。

以上の成果より2008年にテレビ企画部の部長に昇進。東映アニメーション作品の企画責任者となって、ニチアサ8:30枠に帰還。『関プリキュア三部作』を手掛ける。そして梅澤淳稔と共に『どれみ』『ナージャ』において「最後の宿題」となっていた「ニチアサスタッフの負担の軽減」という課題に挑み、それは最終的に「プリキュアシリーズの計画的年次世代交代制の導入」という成果へと結実した。そして、この「やり残した仕事」の成果を見届けた後、関は2012年に本当の意味でニチアサを後にする。

ニチアサを後にした関は、同年に東映アニメーション株式会社企画営業本部企画開発スーパーバイザー(会社役員)へと出世する。作品に関わる事は無くなった……とは言わないが、その機会はめっきりと減る事となった。

しかし折に触れて『おジャ魔女どれみ16』を企画するなど、気がつけばどこかでひょこっと顔を出してくれることもある。

そして、この1990年から2012年という22年の長きにわたるニチアサへの貢献と、その成果より、一部のファンは関をこう呼ぶ事がある。

ニチアサの母」と。


主な作品

脚本家時代(関ひろみ名義)

サブプロデューサー時代

メインプロデューサー時代

企画責任者・スーパーバイザー時代


エピソード

名作好き

サブプロデューサーに推挙されたきっかけが『ナージャ』の企画書で、デビュー作が『レディレディ!!』と名作風作品に縁があるため、密かに「名作(海外文学)好き」の呼び声の高い人。
自身のメインプロデュースデビュー作である『GS美神』でも原作者椎名高志と物語の嗜好(椎名は『世界名作劇場』の熱烈なフォロワー)で意気投合したなどのエピソードが見られる。
さらに自身最大のヒット作と言われる『おジャ魔女どれみ』も実は世界観的な元ネタ(発想元)はロアルド・ダール(イギリスの児童文学者。『チャーリーとチョコレート工場』の原作者)の名作文学である『魔女がいっぱい』だったりする。

そして、その集大成こそが、自らの「長年の夢の結実」として作り上げた『明日のナージャ』だったのである。

脚本の関

元が脚本家志望であった事からか、自らのプロデュース作品に関しては脚本を全話、細かくフルチェックしていた事で知られる。
特に自らが感じた違和感や疑問点には容赦なく突っ込みつつ脚本家らに説明とプレゼンを求め、それで納得がいかなければ監督やシリーズ構成(企画担当時はプロデューサーも含む)が許諾した脚本すら、彼らと綿密な協議の上で改めてリテイクに回す、という事もあったといわれる。まさに関プロデュース作品の脚本家・シリーズ構成・シリーズディレクターにとって、関の存在は作品脚本を映像化させるための最後の困難、脚本における「箱根関所」のようなものであったとか。

そのため、ある意味で関プロデュース作品はシリーズ構成が2人いたようなものと解される場合もある。

闇堕ちの関/光落ちの関

上述のプロフィールからも解るように、関は時に理不尽な挫折も経験して(社会的に)不安定な立場に沈んだ事もある苦労人である。
この経験が活きているのか、時に関のプロデュース作品には、秀逸な闇堕ち光落ちが散見される事がある。
『デジモンシリーズ』や『どれみシリーズ』において、ライバルキャラの光落ちネタを提示した事は有名だが、逆に『どれみシリーズ』『明日のナージャ』などでは見事な闇堕ちネタを提供している。

特に関の手掛けた闇堕ちに関しては「主人公サイドや作内の『正しい人(正義の体現者)』などから闇堕ちキャラへとかけられた無邪気な悪意の無い言動、あるいは相手を元気づけよう、相手に強くなってもらおうとした善意の言葉、もしくは相手に対して心から大事に思うがゆえの感謝の言葉こそが、その相手が闇堕ちする最大の原因となってしまう」(=優しい子ほど闇堕ちする希望や願いを求める子ほど闇落ちする)という大きな特徴がある。まさに地獄への道は善意で舗装されている正義のためなら人はいくらでも残酷になれるといったところか。
例として挙げれば『どれみ』の瀬川おんぷ長門かよこの境遇、『ナージャ』のローズマリーナージャの顛末、『スイートプリキュア♪』のセイレーン/黒川エレン/キュアビートハミィの関係性などが特徴的と言える。

つまりは「人を慰めたり励ましたりする際には、自身の常識や主観には拠らずに、励ます相手本人の心にこそ寄り添いましょう」という事。

そして関の「光落ち/闇堕ち」は、後に自身が参加し様々な追加戦士のパターンを提示した『プリキュアシリーズ』にも多大な影響を与えたと言われる。(→光堕ちキュアを参照)

卒業生のための作品

関のプロデュース手法として、よく言われる(自身も称している)のが「卒業生のための作品を作る 」である。

これが、どういうことかというと、すなわち「自らが企画を受けた時点で子どもたちに流行しているコンテンツに着眼し、流行についていけてなかったり流行に飽きかけたりしているニッチな層にアピールできる作品 」を制作し、そこをグラウンド・ゼロとして話題を広め参考したコンテンツのお株を一気に奪うというやり方を取る(取れなくても「二番手」にあえて甘んじる事で人気を長く安定させる)ということ。

例としては。

などが挙げられる。

その他

  • 関がアルバイトとして東映に入った80年代の東映グループにおいては「女性がプロデューサーになる」というのは前代未聞の常識外れの出来事であった。特に東映グループは当時、映画(もっと言えばそれ以前の舞台社会)からの「力仕事」を重視する男性中心の風紀がそのまま引き継がれていた社風であった。そのため関はサブプロデューサーになりたての頃に「東映グループで女性がプロデューサーになるのは、あと20年はかかる」と言われて驚愕したという。
    • しかし、関はそこから7年程度でメインプロデューサーとして昇格し、他の男性社員が20年と予言した期間を、半分以下の年月で駆け上っていった
    • ひとつ補足すれば、当時の社会情勢においては「女性社員」とは「男性社員(幹部候補)のお嫁さん候補」として入社させられていたにすぎず、入社する女性社員もソレを前提として仕事を行っていた者がほとんど、という時代であった。(ただしアニメーターのような技術職は除く。されどもアニメーターが独立して立ち上げた零細スタジオならいざ知らず、東映グループ関連会社のような人材を多く受け入れて潤沢に回せる大手では技術職が管理職に上がる事も非常に稀な時代であった)そのため、いくら能力がありプロデューサーとして大成する可能性があることが見込まれても、同じ作品を担当した男性プロデューサーや男性シリーズディレクターと結婚して、自らが作品を作ることなく引退する(そして結婚後でも作品に関わりたければ、ダンナを操って作品を作らせる。旦那の成果は妻の成果、旦那の名前は妻の名前)というレールとルールが東映グループに限らずドコの会社でも当然の如く敷かれていたのである。
    • 正直、男性社員たちの20年宣言に、さすがの関の心も折れかけてプロデューサーへの道を諦めかけたという。しかし、そこを踏みとどまったのは「諦められなかった」からだとする。そして石井ふく子(TBS『渡鬼』)岡田由紀子(NHK『おしん』)松下洋子(キティ・フィルム『うる星やつら』)の存在を折れかかった心の添え木として支えにしたという。
  • アルバイト時代に結婚するも、当時の上司から「半人前のアルバイト風情が生意気なことに結婚しやがって、しかも祝辞をねだってきた。正社員な上司の俺には本来そんな時間など無ぇが、仕方がねぇからやってやる。深い上司の懐に心底より心酔して一生感謝しやがれ」(意訳)的な「ありがた~い(皮肉)」お言葉を結婚式の祝辞でいただくことになり(真面目な話、現代ならモラハラパワハラセクハラである)人知れず悔しさに涙を流して怒りに燃えた。そのため現在でも同様の価値観を持つ人間は絶対に許せないとか。
    • 一方で、その結婚が関のサブプロデューサー昇進(正社員登用)を助けた面もある。それまでのプロデューサー候補の女子社員は作品プロジェクトで知り合った男性社員と結婚して寿退社となる(=作品途中で無責任にプロジェクトから離脱する)パターンが多かったが、関の場合は既婚となった上でアルバイト身分で仕事を続けたため、その惧れがなくなった(=安定して作品に関われる)とみなされたためである。実際、当時の上司の登用推薦の言葉が「企画書をしっかりと書けるし、結婚してるから現場に恋愛を持ち込まず、家族を養う責任があるからしっかり仕事を全うするだろう」だったとか。(ただし、この一件は「結婚=社会成員としての責任の強化」と見なす、80年代当時の時代性ゆえの事であることに要注意)
  • 『どれみ』『デジモン』時代(特に作品企画の立ち上げ当時)は一日の平均睡眠時間3時間・休日は一ヶ月に一日あれば良いくらいであったという。しかもその睡眠時間とは移動中のタクシーの中でとったものであったとか。正直、これは80年代トップアイドルの最盛期殺人級スケジュールとタメを張る。


外部リンク


関連項目

東映動画 東映アニメーション
東堂いづみ 本郷あきよし

関先生:『おジャ魔女どれみ』のキャラクター。関がモデル。ただし外見のモデルは江角マキコ

ニチアサ ニチアサキッズタイム ドリーム9

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