ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

田畑政治の編集履歴

2020-02-01 22:14:03 バージョン

田畑政治

たばたまさじ

「田畑政治」とは日本の水泳指導者であり、「1964年東京オリンピック」を招致したキーマン。

概要

田畑政治」とは、日本の水泳指導者である。

朝日新聞新聞記者だった事もある。

また1964年:昭和39年に開催された「東京オリンピック」を招致したキーマンである。




生涯

1898年(明治31年)12月1日、静岡県浜松の裕福な造り酒屋「八百床」の次男としてに生まれる。祖父は55歳、父親は43歳で結核により死去しており、田畑家は男が短命の家系であった。政治も例外ではなく子供のころから病弱であり、周りからは「あいつも30までには死ぬだろう」と言われていた。


そのため政治は田畑家が所有していた浜名湖にて 水泳をすることで体を鍛え、いつしか浜松でも有数のエース選手へと成長していた。しかし15歳の時、慢性盲腸炎大腸カタルを発症。これにより政治は選手生命を絶たれることとなった


浜松の水泳を日本一に

選手生命を絶たれた田畑はその後指導者として浜松の水泳を日本一にすることを決意する。1916年には周辺の学校の水泳部と「浜名湾遊泳協会」を設立する。そして当時の日本一だった大阪の茨木中学校打倒を目標に掲げ、日本泳法が主流の中でクロールの導入、海水プールの設立、全国大会の誘致などを行い1922年に浜名湾遊泳協会は茨木中学を制し日本一に輝いた

その後田畑は東京帝国大学に入学するが、毎年の休みには浜松に戻り後進の育成に専念したという。


朝日新聞に入社

1924年、東大を卒業した田畑は「政治に興味がある」という理由で朝日新聞に入社。政治経済部部長、東京本社代表、常務へと出世し1952年に退社した。ここでは二・二六事件の際に体当たり取材をし、朝日新聞が右翼の襲撃を受けるような新聞記事を書いてしまった。また記者時代には鳩山一郎にも気に入られたという。


1933年に田畑菊枝と結婚をした。


余談だが朝日新聞には、同い年で、田畑とは反対で陸上競技出身であり、後にオリンピック担当大臣となる河野一郎が在職していたが、田畑と河野はこの頃は全く面識がなかったという。


日本の水泳を世界一へ

田畑は日本水上陸上競技連盟を設立し、理事長に就任する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは33歳の若さにして日本水泳選手団の総監督を務める。

この時政治は

  1. 水泳組織の一本化
  2. 専用プールの建造
  3. 信頼できる監督を早い段階で決め、全権限を与える
  4. アメリカのベストチームをあらかじめ日本に招き、地の利をいかして徹底的に倒して戦意をくじかせる

といった目標をかかげ、すべて達成した。この甲斐もあり、日本水泳選手団は金5個、銀5個、銅5個のメダルという驚異的な結果を残す。

その後のベルリンオリンピックでも日本は連覇を成し遂げ、日本の水泳は世界一となった。


日本水泳の国際復帰への尽力

第二次世界大戦で敗北した日本はオリンピックへの参加も認められていなかった。田畑は日本水上陸上競技連盟を日本水泳連盟に改称し理事長に就任、国際水泳連盟への復帰を目指して水泳の復興を目指す。

日本オリンピック協会(JOC)の総務主事に就任した田畑は1948年のロンドンオリンピックへの参加を企画するが、先の大戦の元敵国であったためイギリスにやんわりと断られてしまった。その上「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進(ちなみに田畑と同じ浜松出身)が当時の世界記録を樹立するも国際水泳連盟に参加していなかったという理由でなかったことにされた。これにブチギレた田畑は日本で全国水泳大会を開催する。それもロンドンオリンピックの水泳競技と同日同時刻同種目で行うという徹底ぶりである。これで日本の水泳選手はロンドンオリンピックの金メダル記録を大きく上回る結果を出し、世界に実力を知らしめた。この作戦は功を奏し、日本は国際水泳連盟及び国際オリンピック連盟(IOC)への復帰を認められた。その後も全米水上選手権に古橋廣之進などの選手を派遣し、日本の復権に務めた。


これらの功績により田畑は日本が復帰した最初のオリンピックである1952年ヘルシンキオリンピック、復帰して二回目の1956年メルボルンオリンピックでは選手団の団長を務めた。


東京オリンピックの招致

田畑は1960年のオリンピックの開催地がローマに決定したため、1964年のオリンピックの開催地を東京に招致することを計画する。スピーチを任せた元外交官の平沢和重の活躍もあって他の立候補都市に圧勝し、1964年のオリンピック開催地は東京に決まった。

田畑は東京オリンピック組織委員会の事務総長(事実上のトップ)に就任し開催準備で辣腕を振るう。

開催準備の他にも、田畑の指揮により後に金メダルを大量にとる柔道と「東洋の魔女」と恐れられる女子バレーの正式競技採用を承認させた。


しかし1962年、「第4回アジア競技大会」で開催国のインドネシアが、台湾イスラエルの参加を拒否するという問題が発生、IOCがこれを問題視し「本大会を公式大会と認めない」と発表したため大問題となった。結局日本は大会に参加したが終了後、参加を決定した田畑に批判が殺到。また度重なる失言により1962年10月2日、田畑政治は事務総長を辞任せざるを得なくなった


この時の心境について田畑は「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と語っている。


晩年

事務総長の座を追われた田畑はそれからの人生をスポーツ振興に捧げる。1972年の札幌オリンピック開催への協力やJOCの10代目の最高責任者への就任、中国のIOC復帰への協力、東京オリンピックで惨敗した日本水泳の復興のため後に北島康介を始めとする多数のオリンピック選手を輩出する「東京スイミングセンター」の設立、同施設の初代会長への就任などを行った。後年はパーキンソン病を患いながらも最晩年まで活動を続けた。


1984年の夏に田畑は危篤状態に陥る。あと「何日生きれるかわからない」という状態の田畑だったが、かつての部下であった岩田幸彰が病室にテレビを持ち込み、2回目となるロサンゼルスオリンピックの中継を田畑に見せる。それを見た田畑は奇跡的に回復し、閉会式を見届けて2週間後の8月25日に死去。享年85歳。最期までオリンピックへ情熱をささげた人生であった。


死後、田畑の棺桶にはオリンピックの旗が巻かれた。


史実と本人との比較

史実と本編の内容を比べると、

金栗四三とは異なり、田畑政治が実際に行った事だけではなく、「史実で起こった事象に田畑政治を関わらせる」という形で物語が綴られていっている。

例えば「1940年東京オリンピック招致活動」には、田畑政治は実際にはここまで深く関わっていない。


また田畑政治は実際にはムッソリーニに直接会っていないし、ヒトラーには面会した可能性があるが「本作品の邂逅シーン」は創作されたものである。


その辺りは史実を調べて比べてみるのも一興だろう。


その一方で、

超せっかち、超早口かつ超毒舌、基本的に全方向に超失礼。

という恐ろしく強烈なキャラクターが賛否を呼んだが、

この言動及び行動は、

生前の田畑政治を知る人が「化けて出たかと思った」ほどの史実準拠であったりする。

「化けて出た!」「いだてん」阿部サダヲは史実に忠実?:朝日新聞デジタル


そして先述した、本編で使われた、

世界平和に背を向ける卑怯者

の一連のセリフは、

東京オリンピック閉会式の翌日に、田畑政治が朝日新聞に寄稿した記事の中にあった、とある一文から用いられている。

【該当の一文の記事画像掲載】『いだてん』田畑は東京五輪とどう関わったか - 前田浩次|論座 - 朝日新聞社の言論サイト


関連リンク


田畑政治 - Wikipedia


田畑政治サイト|水泳ニッポンの父 田畑政治ゆかりの地 浜松

田畑政治 偉大なる「ガキ大将」| オリンピックのレガシー | 笹川スポーツ財団

東京オリンピックに懸けた男 田畑政治 | SPORTS STORY | NHK

阿部サダヲ演じる『いだてん』田畑政治、その実像は|前田浩次|論座 - 朝日新聞社


評伝 田畑政治|国書刊行会


関連タグ

水泳 オリンピック

せっかち 粗忽者

河童

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました