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概要

海軍が鉄道省(国鉄JRグループ)の競合相手とコラボしようとしていることに対しての鉄道省の抗議。

簡単に言うとハマの赤いあんちくしょうネタ。

史実では

鉄道省と海軍省の関係性が話題となったのはワシントン海軍軍縮条約の時であった。

この条約ではイギリスとの政治的取引の為に鉄道省の意向を無視する形でEF50形電気機関車を導入させられることとなった。しかしながら、これまで陸軍省に反対されてきた東海道本線の電化が、この「圧力」の存在を理由に可能となるなどある意味では怪我の功名となった。また、これによって海軍側も石炭の割り当てを増やすことが可能となるなど、結果的にはこの機関車の取引は鉄道省・海軍省共に利益を得ることが出来た。

一方で川崎造船所などでは、この条約により八八艦隊計画が中止となったことで余剰となった鋼材を活用してD50形蒸気機関車が製造された。

一方で海軍省と鉄道省は主に鉄道連絡船をめぐり対立していた。

鉄道連絡船の建造において海軍省は軍用への転換が可能な仕様にすることを要求し、無謀な要求を繰り返した。輸送状況を無視して車両搭載のない連絡船を導入させようとして小湊に無理やり桟橋を作らせたり、連絡船建造時に鉄道省の意見を無視して行き過ぎた省力化を強要した結果、連絡船としてはおろか船舶として全く使えないものとなった事例が存在した。

こういった対立の中で妥協策として生み出されたのがW型戦時標準船であった。

その後大日本帝国海軍は船舶需給が逼迫してくると関釜連絡船等の国鉄連絡船の船舶をも徴用しようとし、陸軍の反対で未遂に終わった経緯がある。

また、海軍が日本沿岸の制海権まで失ったため、日本海縦貫線東北本線での長距離貨物輸送が内海航路の代わりに使われ、戦後も引き続き発展してきたという経緯もある。

一方で連絡船網はほぼ壊滅状態に追いやられ青函連絡船は一時期米軍の上陸用舟艇を借りて小湊~函館の連絡船運用を行う羽目になった。これと並行して青函連絡船の修理用ポンツーンとして浸水横転していた天城を函館まで曳航し約1年間使用している。

国の輸送の大動脈であり、早急な復旧が求められた青函連絡船や宇高連絡船に復旧資源を振り分けなければならない一方で、鉄道省は当然ながら小規模な連絡船航路も住民の足を守るために復旧させなければならない。そこで海軍が使用していた150t型魚雷運搬船2隻を五十鈴丸玉川丸として、光海軍工廠で使用されていた特大型発動艇を五月丸として、それぞれ大島連絡船に投入した。

海軍省自体は終戦後第二復員省→復員庁となり最終的に現在の厚生労働省となっているが、掃海部門に関しては鉄道省の後身である運輸省に移管され現在まで続く海上保安庁となっている。また、海軍省解体時多くの技術者を国鉄が引き取っており、彼らは後に新幹線開発などにかかわっている。また、同時期に志免炭鉱も承継している。

海軍出身者で鉄道大臣となった人物として伍堂卓雄(1937)、中島知久平(1937~1939)、寺島健(1941)の3名が存在する。

寺島健大臣は浦賀ドックの社長も務めており青函連絡船で使われる船舶の建造も行っていた。

中島知久平大臣は弾丸列車構想を鉄道省として着手を決定するという大役を果たしている。この弾丸列車構想は戦時中の中断を経て新幹線として結実し、世界的な鉄道復活の希望となった。

また、彼の創設した中島飛行機の後身である宇都宮車両は戦後国鉄の指定工場となっている。その後宇都宮車両は旧中島飛行機系企業の再結集に参加し富士重工業となったが、国鉄や旧国鉄を引き継いだJRグループや第三セクター各社とはその後も取引を続け、2003年の事業撤退までこの関係は続いた。

その他、彼の子息である中島源太郎議員は初めて東京駅の復元を提唱(この復元は2012年に実現)するなど、戦後においても深いつながりを持ち続けた。

1936年から鉄道省は尾鷲~熊野市で省営バス紀勢線を運行していたが、軍歌「日本海軍」の替歌として「紀勢線の歌」という歌がいつしか歌われていた。海軍が消滅し、同線が国鉄バス紀南線と名前を変えた後も歌われ続けたが1959年の紀勢本線全通と共にバスはその役割を終え、この曲も忘れ去られている。

現在、JR九州高速船が運営するビートルが飛鷹型大鷹型(一部)の本来の保有者である日本郵船の子会社カメリアラインと博釜航路において競合している。

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