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キリシタンの編集履歴

2021-07-15 23:53:20 バージョン

キリシタン

きりしたん

キリシタンとは、日本前近代のカトリック信徒たちである。

概要

江戸時代以前の日本において、キリスト教カトリックを信仰した人々。近代以降のキリスト教徒はクリスチャンと表記する。ただし、前近代の日本ではプロテスタントは布教されず、プロテスタント信者のオランダ人たちはキリシタンとは認識されなかった。


禁教の歴史

戦国時代宣教師(バテレン)により伝わったカトリック信仰は、九州を中心にその支持者を広め、安土桃山時代にはカトリックを信仰する領国の支配者であるキリシタン大名が出てくるほどであった。


しかし、彼らのなかには日本で古来から信仰される神道や、神道と結びつきが強い仏教など、土着の信仰を異教だと敵視し、寺社仏閣を襲撃して破壊し冒涜する蛮行を働いた者もいた。これには貿易によって影響力を強めていたキリスト教修道会のイエズス会が、キリシタン大名の権力争いに介入していたことも起因している。


豊臣秀吉が九州平定を終えた1587年、イエズス会が日葡双方の商人に日本人を奴隷として海外に売りさばかせていたことが判明。秀吉はイエズス会日本支部準管区長のガスパール・コエリョを問い詰めたが、コエリョは大友宗麟有馬晴信らキリシタン大名に反乱をそそのかすなど挑発的な行動を取る始末であった(キリシタン大名たちがコエリョの求めに応じなかったので反乱は不発に終わった)。秀吉はそれを知ると決意を固め「伴天連(バテレン)追放令」を発令。この命令では宣教師の日本退去を命じるとともに、伴天連宗(キリスト教)の布教を禁じ、また大名が伴天連宗を信仰するのは許可制とした。


戦国時代の日本では奴隷の使役と売買は盛んであった。秀吉が奴隷売買を禁止したのは、支配体制を固め、税収の安定化を狙ったためであった。この事件はそうした矢先で起きたものであったため、別に人道的観点で秀吉が布教を禁止したというわけではない。また、秀吉はその晩年の1596年に起こったサン=フェリペ号事件でスペインが日本征服を計画していると疑い、宣教師の大量処刑を行うなど弾圧を強化している。


こうした経緯や、神の前にすべての人々が平等という教義から、徳川幕府はキリスト教を危険視。教会を破壊し、布教だけでなく信仰も許されなくなった。キリスト教信仰を持っていた徳川家家臣や大名たちは改宗を強いられた。そして1622年の「元和の大殉教」を機に、各地で強制改宗に応じなかった信徒の処刑拷問が展開され大弾圧が始まった。


彼らの多くは信仰を捨てたが、一部の者は隠れてカトリックの流れをくむ信仰を続けた。漢字では吉利支丹と表記するが、禁教以降は切利支丹、鬼理死丹などと蔑称(べっしょう)的表記もなされるようになった。


禁教以降は大変に厳しく取り締まられるようになり、「隠れキリシタン」として仏教的、神道的なカモフラージュで自身の信仰を守らざるを得なくなった。白衣観音や慈母観音を聖母マリア像に見立てたり(マリア観音)、仏像の裏や底、ポーズのなかに「十字」のマークを潜ませる、経文や祝詞(のりと)に偽装して主の祈りや聖句を唱える(オランショ、あるいはオラショと呼ばれる)などの努力がなされた。


しかし、そんな中でも潜伏の形で信仰していた教徒も弾圧によって炙り出され処刑された者も多く、現在でもキリスト教関連史跡が多く残る長崎県でも大村市では処刑された者の首と胴を互いに離れた場所に埋められた「首塚」「胴塚」というものがある。これは「郡崩れ」と呼ばれた弾圧によるものであり、「バテレンの妖術で首と胴が繋がり復活するのを恐れた」為である(恐らくはイエス・キリストが処刑後に復活した事を省みたものだとされる)。


当時翻訳された聖書の巻はごく一部であり、禁教により宣教師の指導、日本人司祭の育成が出来なくなってしまったこともあり、時代を経るにつれその信仰内容は変質し、また本来はカモフラージュにすぎなかった仏教や神道の信仰に愛着を感じるものも出てくるに及び、元のカトリックとは別物になってしまった。

その一方で、長崎浦上のように、カトリック本来の教義や儀式を忠実に守り抜いたキリシタン集落も多く、幕末に建造された大浦天主堂の司祭・プチジャン神父が浦上の隠れキリシタンを調べた際、洗礼方法がまったく変化していないことに驚嘆していたという。特に上記の「郡崩れ」等の200年以上に及ぶ弾圧により長崎のカトリック教徒は全て絶滅してしまったものと思っていたが、ある時少数の人々がプチジャン神父の元へ訪れて密かに教えを守ってきたことを告白してきたときに、長崎のカトリック教徒が生き残っていたことに大層驚いた(訪れた信徒が「サンタ・マリア様の像はどこですか?」の一言が決定的だったとされる)。この時は1865年3月17日で鎖国解除された後で比較的に弾圧が穏やかになりつつあった頃である。この驚きと奇跡をバチカンに歴史的発見として報告したとのこと。この出来事は『信徒発見』という宗教史最大の奇跡として世界的に有名である。


禁教がなくなり、信仰の自由が認められた近代に至ると、大半はカトリック教会に復帰し、もしくは教会との接触を嫌って仏教や神道だけを信仰するようになったが、現代においても、変質した「カクレキリシタン」の教えを継承する人々がいる。尚、バチカン教皇庁はこのような「カクレキリシタン」もまたキリスト教徒の一派であるとの見解を示している。

現在の、特に長崎のカトリック信徒は、辛い禁教の記憶を思い起こさせる「キリシタン」を自称せず、そう呼ばれることを好まない傾向にある。また「隠れ」が非合法や反社会を思わせるともとれるのか、歴史上の用語として「潜伏キリシタン」に改める傾向にある。


2015年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産への推薦書を提出していたが、2018年6月30日に日本としては22件目の世界遺産として登録されることになった。


関連イラスト

細川ガラシャ夫人練習

細川ガラシャ


関連動画

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2017年7月)


吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」("Gloriosa" Symphonic Poem for Band)/伊藤康英

第1楽章「祈り」(Oratio)

第2楽章「唄」(Cantus)

第3楽章「祭り」(Dies festus)


関連タグ

キリシタン大名

島原の乱

天草四郎

フランシスコ・ザビエル


外部リンク

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