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タイテエムの編集履歴

2022-01-02 19:09:38 バージョン

タイテエム

たいてえむ

1970年代に活躍した日本の競走馬。

概要

タイテエムとは、日本産の競走馬。


持込馬ではあるものの、クラシック5大競争及び天皇賞への出走規制が敷かれる直前の母馬輸入・出産であったため、クラシック・天皇賞へ出走することが出来ている。

四白流星(四肢の先が白く、顔に流星が入る)の毛色と、その血統の良さから「貴公子」と呼ばれた優駿である。


プロフィール

名前タイテエム
欧字表記Tai Tehm
品種サラブレッド
性別
毛色鹿毛
誕生日1969年4月14日
死没日1994年10月23日(享年25)
セントクレスピン
テーシルダ
母父ヴェンチア
産地北海道浦河町
管理調教師橋田俊三(栗東)
生産地出口留雄
馬主(有)名鯛興業

経歴

デビュー前

1969年4月14日。北海道浦河町において、四肢の足先が白く染まった四白流星の華やかな馬体の仔馬が誕生した。


父は1959年の凱旋門賞覇者セントクレスピン

母であるテーシルダはイギリスで交配され、後にタイテエムとなる仔を受胎した状態で日本にやってきた。

そのため、タイテエムはのちの時代のエイシンフラッシュなどと同じ持込馬となる。

母父は、イギリスでセントジェームズパレスステークスなどを制したヴェンチア。父、母父ともに申し分ない良血馬だった。


タイテエムが誕生した頃の競馬界には、あるジンクスがあった。

「見かけの派手な馬は大成しない」

というものである。

前述の通り、タイテエムは四白流星の派手な馬体だったためになかなか買い手がつかず、牧場に訪れた調教師界の大御所、武田文吾も敬遠するような状態だった。

その後、武田と入れ替わりでやってきた橋田俊三調教師に見いだされ、買い手が見つかることになる。


デビュー~2歳

栗東の橋田俊三厩舎に入厩し、1971年10月に鞍上へ楠孝志を迎えてデビュー。単勝1番人気に推されるも8着と惨敗。

初年は3戦1勝で休養入りし、鍼治療の施術を受けることになった。

3歳時

1972年は鍼治療の効果もあってか調子が好転し、弱かった腰も良好な具合に仕上がっていた。

楠に代わって須貝四郎(ゴールドシップ等の調教師、須貝尚介の叔父)を鞍上に向かえると、休養明けにさわらび賞やまぶき賞を制し、早速2連勝。

当時は馬インフルエンザ流行の関係で春の競走スケジュールに遅れが生じており、クラシックへの出走を見越して東上。スプリングステークスではヒデハヤテを破って一躍クラシック有力候補となる。

皐月賞

そして迎えた皐月賞

レースにはタイテエムのほかに、当時無敗で「重戦車」の異名を持つロングエースも出走登録を行っており、タイテエムとロングエースの一騎打ちが期待されていた。

ゲートが開くと、タイテエムは中団付近を追走し、大外に持ち出して直線で先頭に立つが、背後から吸収してきたランドプリンスに差されたのち、後退して掲示板外に敗北。

勝馬は野武士と称されたランドプリンスであった。

日本ダービー

続く東京優駿では、タイテエム、ロングエース、ランドプリンスの関西三強+皐月賞2着の関東馬、イシノヒカルが集結。

錚々たる面々が東京競馬場にそろうこととなった。

いざ迎えたレースでは逃げるスガノホマレを前に皆がら好位につけ、4コーナーで外からまくって直線で先頭に立ち、ロングエースと競り合いに負け、3着と敗北を喫する。


秋は神戸新聞杯から始動。その神戸新聞杯では見事1着をつかみ取り、京都新聞杯で連勝。

そして、そのままの勢いで三冠最後の菊花賞へと向かった。

菊花賞

そして迎えた菊花賞。

これまでと同じく好位につけ、3~4コーナーで抜け出したものの、イシノヒカルに差し切られてしまう。

勝ちを収めらることは叶わなかった。

4歳時

1973年は京都金杯よりスタートするも4着。レース後は腰を気にする様子があったため休養した。休養明けのマイラーズカップでは、病気により騎乗ができなくなった須貝四郎に代わって兄の須貝彦三(須貝尚介の父)を鞍上に迎え、不良馬場を克服して勝利。

そのまま春の天皇賞に向かうこととなった。

天皇賞(春)

いざ迎えた天皇賞。発走直前に豪雨に降られて馬場は重馬場となっていた。

スタートを切ると、タイテエムは再び中団付近に構え、確実に脚を溜めていく。そして、やはり直線付近で仕掛けた。

白いメンコも勝負服も泥で真っ黒にしながら駆け抜け、先頭でゴールイン。

「四白流星、タイテエム、タイテエムだ!タイテエム先頭だ!タイテエム先頭、タイテエム、無冠の貴公子に春が訪れます!タイテエム1着!タイテエム1着!」(関西テレビ 杉本清アナウンサー)

出走馬のスガノホマレが骨折して競走中止になるなどの大乱戦となったが、優勝を果たした。

天皇賞後

その次の出走となった第14回宝塚記念では、後に競馬界に大衝撃を与えるハマノパレードに逃げ切られて2着。

更にレース直後に鐙が切れ、須貝騎手が振り飛ばされて放馬し、その際に転倒してアキレス腱を故障してしまう。

橋田調教師は有馬記念で復帰させることを目標に療養入りさせるが回復が間に合わず、10月14日に引退を発表した。


引退後

引退後は種牡馬入り。シンチェストコーセイなどを輩出し、内国産種牡馬不遇の時代に一定の成績を残した。


1992年に種牡馬からも引退。馬主が北海道に用意したメイタイ牧場で余生を送っていたが、満足に歩けなくなるほど老衰が進み、1994年10月23日に老衰で死去した。享年25歳(旧馬齢表記)


余談

2022年1月1日、メイタイ牧場の公式Twitterが以下のツイートを投稿。

タイテエムのウマ娘化オファーツイートで大きな話題を呼んだ。

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