ロッテオリオンズ
ろっておりおんず
現在の「千葉ロッテマリーンズ」の源流のプロ野球球団。
本記事では、ロッテ参入から本拠地を千葉へ移転するまでの球団の歴史について解説。
球団史
「ジプシー・ロッテ」
1969年より東京オリオンズがスポンサーに、それまでの大映に加えてロッテを据え、チーム名をロッテオリオンズと改称。1970年に3度目のリーグ優勝を果たす。1971年より大映が経営悪化により球団経営から手を引き、正式にロッテが親会社となる。
しかし1972年に東京球場が経営難から閉鎖されると、以降1977年まで特定の本拠地を持たない球団となってしまう(いわゆるジプシー・ロッテ。「ジプシー」とは「移動型民族」を示す言葉で、現在は差別的用語とみなされ使用されることは少なくなった)。
1973年には日拓ホームフライヤーズとの合併騒動が持ち上がるが破談に終わる。
1974年から暫定的に宮城県(宮城球場)を保護地域にしていたが、諸々の施設は首都圏に据え置かれ、さらにこの年の優勝時にチームが仙台を無視したことから物議を醸した。
具体的には「日本シリーズは後楽園球場で開催された(ただしこれは当時の宮城球場の収容人数が規定未満だったためであり、球団の責任ではない)」、「優勝パレードを東京でのみ実施し仙台で行わなかった」など。
川崎球場時代
1978年に大洋ホエールズが横浜スタジアムに本拠地を移転するのに伴い、空きになった川崎球場に移転することに決定。6年ぶりに本拠地を確保した。
山内、山本一義、稲尾和久らが監督を務めるが優勝は出来ず、稲尾監督辞任後の1987年には当時の主力選手だった落合博満を牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂と1対4のトレードで中日ドラゴンズに放出。
1988年には10.19と呼ばれる「パ・リーグの最も長い一日」を近鉄バファローズと演じ、最下位ロッテと引き分けた近鉄は優勝を逃すことになる。
この時代の主力選手は有藤道世、山崎裕之、弘田澄男、成田文男、村田兆治、木樽正明、仁科時成、水谷則博、倉持明、西村徳文、レロン・リー、レオン・リー、横田真之、高沢秀昭、小川博、平井光親ら。
余談
熱狂的なファンがついている現在のマリーンズからすれば信じられないが、川崎時代は超がつくほどの不人気球団であり、ビートたけしに「川崎球場で人が死んでも死体は見つからない」とネタにされ、TVの珍プレー好プレーではガラガラの球場でカップルがいちゃついたりするシーンや、果ては川崎球場の代名詞ともなった「観客席で客が流しそうめんを行う」シーンまで流され、あまりの不人気ぶりに球団も「TVじゃ見れない川崎劇場」と自虐広告を出し話題となるほど。
千葉移転後に少しずつ改善されることになるが、入れ替わる形で不人気に甘んじたのがこのチームである。
1980年代に福岡移転が取り沙汰されていた。実際に水面下で交渉が進んでおり、稲尾が監督を務めたのも移転の下準備であったが、実現することはなかった。
本拠地が一定しない頃のトラウマからか、千葉への本拠地移転後は地方での公式試合の主催は激減。かつて本拠地であった仙台で2~3カード程度と北陸で隔年で1試合が開催されるのみであった。さらに2005年には仙台に楽天が創設されたこともあり、仙台での主催試合は消滅。2005年以降は数年に一度北陸地方での開催のみとなっており、地方開催に最も消極的な球団となっている。