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秋山信友の編集履歴

2022-03-01 12:28:36 バージョン

秋山信友

あきやまのぶとも

実名は秋山虎繁。武田信玄・勝頼に使えた戦国武将である。「武田の猛牛」とあだ名された。1527年~1575年。

概要

甲斐の戦国大名である武田信玄勝頼の2代に使えた人物。

実名は虎繁とされるがここでは便宜上、信友に統一する。

戦場では猛烈に敵軍に突っ込み蹴散らしていく猛将であったが、本領は調略や流言を用いて敵軍の弱い所を突くことが得意とする軍略家であった。

官位・通称は善右衛門尉、伯耆守。

あだ名は武田の猛牛。


生涯

1527年に生まれる。秋山氏は加賀美遠光(武田信義の叔父)の長男・秋山光朝を祖とする。光朝は源頼朝に疎まれ甲斐源氏粛清の一環として1185年に処刑されたが、光朝死後の秋山氏は板垣・甘利氏などと共に武田宗家の家臣になった。時代は下って武田信虎が叔父・岩手縄美らを打ち破った際に秋山信任(新左衛門)という人物が信虎に帰服している。信友の父はこの信任とされることもあるがはっきりしていない。また元服したのは信虎が嫡子・晴信に追放された後とされているが、実名の虎繁が飯富虎昌原虎胤のように信虎の偏諱を受けたことが推測出来るため信虎追放前と考えられるようになっている。


信友が初めて記録に出てくるのは、1549年に武田家に使える武士の1人に軍役免除の朱印状奏者としてである。この時の信友は二十歳過ぎと非常に若いながら前年に板垣信方甘利虎泰らを失った武田晴信から幹部候補生として期待されていたと考えられ、1553年、武田家が村上義清の居城であった葛尾城を陥落させた際の戦後処理を担当するなど期待に応えた。


1555年頃、室角虎光(諸角虎定とも)と共に美濃斎藤家の動きの監視を晴信の命令で行い、1559年までには、大嶋城の城代並びに伊那郡代に任命され、伊那郡を統治しながら、奥三河や東美濃で武田家の軍事・外交を担い斎藤道三義龍龍興らと対峙している。


桶狭間の戦い後に美濃へ侵攻してきた織田信長とも東美濃で小競り合いがあったものの、上杉輝虎(謙信)今川氏真との対決に備え信玄は信長と手を結ぶことを決断。1565年に、武田家と織田家の同盟締結の取次を行い、3年後には信長と直接謁見し太刀を授かった。さらに信長の同盟相手である徳川家康とも今川領である駿河と遠江に同時に攻め込み、武田と徳川で駿河と遠江を折半すると話し合いを付けている。が、それにもかかわらず、信友は徳川領である遠江を侵略し、家康から猛抗議されている。


1570年には突如2千の兵で奥三河に侵攻し、遠山衆や山家三方衆5千で激突するも、事前に山家三方衆に対して中立を保つように調略を仕掛け、突出した遠山衆を深田に誘い込み尽く討ち取っている。


1572年に、信玄の西上作戦では山県昌景の別働隊共に奥三河に侵略し、多くの城を陥落させている。この時、敵である家康から『武田の猛牛』と呼ばれ後の世に2つ名として定着した。そして、以前から調略を仕掛けていた美濃の岩村城の岩村城とその城主である信長の叔母おつやの方の心を陥落させ岩村城を取り、信長の五男※・御坊丸(織田信房)を甲府に送る。


※五男とされることが多いが年齢順で言えば四男・羽柴秀勝(於次)の方が年下である。


1573年には、おつやの方と祝言を上げている。2人は仲睦まじい夫婦だったようだったと伝わっている。また金丸虎義の三男の昌詮(土屋昌続の実弟)を婿養子にしている。


しかし、同年の4月12日主君の信玄が病死し勝頼が家督を継ぐが1575年の長篠の戦いで大敗。その間隙をついて織田信忠河尻秀隆らの大軍1万に包囲されてしまう。信友とおつやの方は半年近くも城を守るも、勝頼からの援軍は間に合わず落城を迎える。2人は自らの命を引き換えに城兵の助命を乞うも、2人について怒り狂っていた信長・信忠は耳も貸さず城兵を皆殺しにし、2人を処刑した。

信友は享年49であった。秋山家は前述の昌詮が継いだが1579年に29歳の若さで病死している。

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