概要
王莽による簒奪後に中国を再統一し、漢王朝の再興として後漢(ただの“漢”だが、後世では便宜的に後漢あるいは東漢と呼ばれる)王朝をたてた。廟号は世祖。
三国志の劉備のように「漢王朝を復興する」と主張した人物は多いが、本当に復興できたのは劉秀のみ。完璧超人な名君として中国での評価は高く、曹操が尊敬した人物としても知られる。後世の歴史家に言わせると「本人が優秀すぎて他の時代なら有名になれるはずの部下が全然目立たない」。
日本での知名度は前述の劉備や前漢の高祖・劉邦に比べて低く、「『漢委奴国王』の金印を日本に贈った人」程度であり、優秀すぎて粗捜しをされまくるため評価はあまり高くない。
来歴
紀元前5年
1月15日、済陽県の県令を務める劉欽の三男として河南省で誕生。
温和で大人しく慎重で、血気盛んな長兄・劉縯の陰に隠れて目立たなかった。
5年
父が死んだため、叔父の劉良に育てられる。
劉秀は執金吾(宮城の警備担当武官でかっこいい制服を着ていた)に憧れ、地元で美人として有名だった陰麗華を嫁にすることを夢見る若者で(仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華)、天下を獲るような野望とは無縁の人物であった。
14年
長安に留学して太学(官僚の教育機関)に学び、鄧禹や荘光、朱祜らと親友となる。
22年
長兄・劉縯の新朝に対する挙兵(舂陵軍)に従う。貧しかったので馬ではなく牛に乗って軍に参加した。
劉縯は劉嘉を派遣して新市兵の王匡、平林兵の陳牧に同盟を申し入れ、緑林軍に合流した。
緑林軍は長聚、唐子郷、湖陽、棘陽を攻略するが、宛城攻略を目指して進軍中、小長安(南陽郡育陽県)で甄阜と梁丘賜の軍に遭遇し大敗した。この戦いで次兄の劉仲、姉の劉元とその3人の娘が新軍に殺害された。
23年
新市兵、平林兵が新軍を恐れて逃げようとしたため、劉縯らは下江兵の王常に面会を申し込み同盟した。緑林軍が甄阜軍、下江兵が梁丘賜を攻めて逃走させ、黄淳水に追い詰めて全滅させた。甄阜と梁丘賜が敗れたと聞いた新軍は退却し、緑林軍はこれを追撃して撃破した。
緑林軍に参加者が増え10万人ほどに膨れ上がったため、皇帝を立てようという話が持ち上がり協議を行う。優秀な劉縯は警戒され、凡庸な人物と見做されていた劉玄が「更始帝」として擁立された。
新朝は更始軍を討伐するため、王邑と王尋が率いる100万の兵(実数は40万程度)を差し向けてきた。数千の兵しかない劉秀軍は昆陽城に逃げ込んだが、城内にも8千の兵しかなかった。劉秀は13騎で城外へ脱出し郾と定陵で兵を集めた。
包囲された昆陽城を救うべく、劉秀が援軍を率いて進撃して来たが王邑と王尋は舐めてかかり、1万人を率いて単独で劉秀軍を攻撃し、撃破され、王尋は戦死した。その後、劉秀は決死隊3千人を率いて新軍の中核へ突撃する。昆陽城内の兵も呼応して挟撃し、新軍は混乱に陥り逃走した(昆陽の戦い)。
兄・劉縯も宛城を陥落させ、兄弟の名声は高まった。更始帝は兄弟を警戒し、部下が更始帝からの官位を固辞したのを反逆の証として劉縯を処刑した。
昆陽の戦いの結果、地方の豪族が次々と更始軍に合流し、更始帝軍は洛陽を陥落させ都とする。劉秀は更始帝に警戒され、洛陽から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する武将として大司徒劉賜から推挙された。
河北に赴任した劉秀の元には故郷から鄧禹が単独で駆け付けた。劉秀は酷寒と飢えの中、鄧禹・王覇・馮異ら僅かな部下と共に厳しい戦いを強いられたが自立の機会を得た。
趙の豪族らによって邯鄲で皇帝に擁立されていた王郎は劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。
漁陽郡と上谷郡の豪族たち(信都郡の任光・李忠・萬脩、和成郡の邳彤、地方豪族の劉植・耿純、漁陽郡の呉漢・蓋延・王梁、上谷郡太守の耿況に息子の耿弇・耿舒、その部下の景丹・寇恂など)が劉秀の軍に加わり、彼らは精鋭の烏桓突騎を擁していた。
真定公劉楊の姪・郭聖通を娶り、王郎の配下で10余万の兵を持っていた劉楊を味方に引き入れることに成功した。
その後、更始帝は新を滅ぼして長安に遷都したが、奢侈な宮廷生活に染まり民心を失う。
24年
劉秀の軍は邯鄲を陥落させ、王郎を滅ぼす。
更始帝は劉秀を蕭王とし、兵を解散させて長安に呼び戻そうとするが、劉秀は「河北の平定が完了していない」という理由で断る。
清陽で諸国を流浪する農民反乱軍「銅馬軍」を降し、その数十万の兵力を吸収し「銅馬帝」と呼ばれた。
25年
部下からの即位の上奏を拒否するも、4度目で受け入れる。6月に即位して光武帝となり漢を建国、元号を建武とし洛陽を都とした。
貴人として陰麗華を迎えた。劉秀は陰麗華を皇后に擁立したかったが、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。
郭聖通が劉彊を生んだが、真定王に復帰した叔父の劉楊は謀反を企て、劉秀の命を受けた耿純の謀略で殺された。
長安の更始帝は山東の農民反乱軍「赤眉軍」に降伏後、殺害される。
26年
劉秀の姉婿・鄧晨の甥で陰麗華の叔父である鄧奉は、大司馬の呉漢が荊州討伐に向かう途中で故郷の新野郡(三国時代、劉備が一時期拠点にした)で略奪を行った事に激怒し、呉漢を撃破し、劉秀に叛逆する。
27年
鄧禹と馮異が赤眉軍を攻撃し、兵糧の尽きた赤眉軍は漢軍に降り配下となった。
鄧奉を降伏させたが耿弇らの進言もあり処刑した。
28年
29年
太学を設立し、儒教を振興。
彭寵夫妻が暗殺され、後を継いだ息子の彭午を滅ぼし乱を平定。
30年
山東を平定。租税を収穫の1/10から1/30にまで減税(前漢時代と同じ)。
31年
売人法を制定。
34年
35年
奴婢(奴隷)と良民の刑法上の平等を宣言。「天地之性、人為貴(この世界においては、人であることが尊い)」との詔を発したと記されている。自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。
馬援(後漢の馬騰・馬超父子らの先祖)に羌族を討たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて支配下に置いた。
36年
來歙や岑彭の犠牲はあったが、蜀の公孫述を滅ぼし、中国統一を果たす。
官吏の登用制度を改定。優秀な人物を推挙するシステムを全国規模で構築。
37年
略人法を公布し、人身売買を禁止した。
39年
耕地面積と戸籍の全国調査を施行。国家の統治・財政を確立。
40年
交阯(ベトナム)で起きた徴姉妹の乱に対し、馬援を派遣して鎮圧。武力行使の一方で農業の振興などをおこない、民心の慰撫に務めた。
前漢時代の五銖銭の鋳造が復活し、貨幣制度の整備が進む。
41年
中風の発作を起こして死にかけ、郭皇后に遠慮して郷里に帰っていた陰麗華に会いに行く。その間に郭皇后が許美人(劉秀が若い頃内縁の妻だった身分の低い女性)や陰麗華の産んだ庶子に対し不平等に接したため皇后を廃される。
郭聖通の2番目の子の劉輔が中山王に封じられ、郭聖通は中山王太后となる。
陰麗華が皇后となる。
43年
陰皇后の産んだ劉陽を太子に立て名を劉荘と改める。
太子を廃された劉彊は東海王となった。
44年
劉輔が沛王に転じ、郭聖通は沛王太后となった
54年
郭聖通が病没する。
56年
封禅の儀式を実施。
57年
3月29日、劉秀が62歳で病没。
人物
- 一度滅んだ王朝を再興するという歴史上非常に珍しい偉業を成し遂げた。
- 武将として非常に優秀。個人戦にも優れ、学問に堪能。人間性が面白くて人望があり、政治家としても能力が高い。
- 相思相愛の美少女幼馴染と結婚し、皇帝にまで出世した上に優れた部下に恵まれ、息子まで優秀。
- 部下と一緒に宴会で泥酔して騒いだ。
- 41年に里帰りした際、親族を集めて宴会を行った。伯母から「文叔(劉秀)は若いとき慎み深く、人見知りだし、ただ柔(おとなしい)だけだったのに。こんなになるなんて。」と言われた。それを聞いた光武帝は「わたしが天下を治めるのも、柔の道をもって行おうと思います」と答えた。
- 真面目な部下との会議中に美女の屏風絵を盗み見て叱られる。
- 連日の夜遊びに激怒した部下(奥さんという説もある)に締め出されて野宿した。ちなみにこれも皇帝になってからの話で、最低2回は野宿している。
- 聖王聖王と連呼されるので「うるさい。聖王って呼ぶの禁止」と宣言した。
- 地方の役人からすら、「金にせこい」だのと言われる。
- ダジャレ好きで、妻である陰麗華を辟易させていた。
- 無名の頃に、悪政の被害を受けていた逃亡者を匿う。
- 数十万人の降伏した銅馬軍を前に鎧もつけずに巡回してみせ、忠誠を勝ち取る。
- 皇帝即位後、不正をした文官は躊躇せずに処罰。
- 好学の人で、孫権が配下の呂蒙に学問の大切さを説いた時、曹操と共に引き合いに出されている。
- 戦場では最前線に立ち、自ら得物を手に戦ったが、天下統一後は皇太子・劉荘が戦について尋ねても「これはおまえがかかわるべきことではない」と答えなかった。
- 「柔よく剛を制す」「隴を得て、復た蜀を望む 」「疾風に勁草を知る」「赤心を推して人の腹中に置く」「志有る者は事竟に成る」などの名言を残した。